私と中国〈889〉

「中国残留孤児」同様の体験

石田 發子さん
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  「中国残留孤児」ではないが、孤児同様の体験をした。そのことが原点にあって、1981年の肉親探しへの参加から、中国残留孤児の「新支援法」「配偶者支援法」成立まで30年以上にわたって中国帰国者支援に献身している。
 發子さんは6歳で植民地「満州国」に渡った。父は亜麻の栽培と加工工場を「満州」に22カ所持っている経営陣の1人だった。5人の娘と2人の息子を加えた9人の大家族であった。
 日本の敗戦直後の1945年8月22日、ソ連兵がハルビン市内に侵入。父は関東軍が同胞の民間人を放棄して去る時に配られた青酸カリで家族全員死ぬ覚悟であった。しかし状況を知った中国人社員の救出によって命を拾うことができた。
 多くの「残留孤児」と生活環境は異なるが、ソ連侵攻による恐怖の体験は同じであった。1946年5、6月にソ連軍が撤収後、父は北上した「八路軍」による戦後処理と復興に協力すべく留用(抑留)になる。家族も共に残り、内戦中にハルビンからジャムス、瀋陽、長春と移り住んだ。
 1949年、中華人民共和国が成立した。發子さんは人民大学の看護婦など、いろいろと働いた。基礎建設3カ年計画の間に、朝鮮戦争の厳しい体験もあったが、發子さんは国費で地質調査所技術員養成の機会を得たただ1人の日本人であった。
 1953年日中民間交流により帰国した。帰国後は横浜市で生活擁護や教育・平和運動など多方面で活躍してきたが、いつも心の奥底には「中国での体験」があり、「中国帰国者支援」が第1にある。(宣)


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