私と中国〈879〉

「孤児」の父を支えた母のために

田中 恵美さん
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 父・文治さんは、「満蒙開拓団」で中国黒龍江省牡丹江へ父母、兄妹とともに「渡満」した。
  ソ連の侵攻による混乱のなか、当時5歳の文治さんの実父は目の前で中国人に殺害された。文治さんは山中に逃れたが、母・妹と行きはぐれた。いまもって所在は不明である。父母の故郷さえ分からない。
  その父は1988年、母(中国人)と来日、病弱の母をかばいながら、酒の卸問屋の仕事などを続け、60歳の定年まで働いた。
  父は、中国では優しい養父母に育てられ、大学を出て教員となり、体育学校の校長まで勤めた。しかし、日本語が話せないため、中国での教育は生かすことができず、3K(きつい・きびしい・きたない)の肉体労働を余儀なくされた。
  恵美さんは、1990年その父母を追って、夫(中国人)と2人の子どもを連れて日本に移住した。父同様、日本語が話せず、コンビニやスーパーの清掃の作業に従事、その後13年、いま中華街の売店で働いている。
  「孤児訴訟」も支援、中華街やJRの駅頭で100万人署名にも取り組んだ。「孤児」の父を支えてきた母のためにもと、配偶者支援充実に取り組み、「神奈川の中国帰国者・2、3世と交流する会」(大森猛世話人)の活動を手伝っている。仕事にはない〟やりがい〟を感じている。
  中国の友人と電話で話すと「尖閣問題は日本が悪い」と厳しい批判が跳ね返ってくる。25年も暮らした中国である。「悲しい気持ちです。本当に日中が仲良くなって欲しい」と、祈るような表情で語ってくれた。

(S)


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