私と中国〈971〉
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福岡支部会員
高向(たかむく) 洋子(ようこ)さん
不戦の誓い生涯貫く |
「生後7カ月の時、歯科医だった父は召集され軍医として満州へ。その後、沖縄に医療班として配属され戦死しました。戦争は絶対に起こしてはいけません」。
高向洋子さん(77歳)は、1940年(昭和15年)8月、福岡県大川市で3人姉妹の3女として出生。父親の沖縄での戦死は、同じ部隊だった人が戦後知らせてくれました。
洋服の仕立てをしながら必死で子どもの養育に努めた母親を見ながら、進学をあきらめた洋子さんは地元の銀行に就職。それから間もない19歳の時、久留米市で開かれていた「中国問題研究会」の看板を見かけ、偶然参加したことが高向さんのその後を決定づけました。
「研究会で、新中国の建国にかかわった人びとと知り合い、建設に励む中国の生き生きとした姿を学んだことは、私にとって『目からうろこ』でした。日中友好協会にも入会しました」と当時を回想します。
24歳の時、友好運動で知り合った高向洋人さん(故人)と結婚、福岡市へ転居し、民医連加盟の診療所に職を得て、経理事務を担当。それ以来、仕事や子育てに励みながら、居住地の仲間と「地域班」で、中国映画の上映会など、さまざまな友好活動に取り組んできました。
その間、「文化大革命」(1966~76年)の影響で、仲間との別れもありましたが、中国への信頼は変わりませんでした。昨年6月には、父親が駐留していた旧満州の東寧(黒龍江省のロシアとの国境の町)の陸軍病院跡を訪ねるツアーに参加しました。
「日本人が戦争の被害者であり加害者でもあった事実をもっと知るべきです。平和友好運動は生涯続けます」と力強く語りました。
(有馬)