私と中国〈964〉
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茨城県南支部会員
種子島 秀子 (たねがしま ひでこ)さん
二度と戦争をしてはならない |
1937年、日中全面戦争の始まった年に京都市左京区で生まれた種子島秀子さんは、1944年7歳の時に家族7人で廟嶺(びょうれい)京都開拓団に加わって吉林省樺甸(かでん)県楊樹(ようじゅ)村に移住した。
翌1945年、日本の敗戦とともに、悲惨な逃避行を経て撫順(ぶじゅん)市に到着、その間に父は殺され、5歳の妹(三女)を失う。当時、妊娠中だった母は一番下の妹(四女)を中国人に預け、姉と次女の秀子さんを連れて中国人と結婚した。
その後、国共内戦が始まり一家は餓死すれすれの生活だった。そのため1946年1月に生まれた妹は1カ月にもならないうちに中国人に養子に出され、その後の消息は全く分からない。
1949年11月、中国共産党の軍隊が撫順市に入城して、ようやく生きる道を見出して以後、秀子さんは日本人であることを背負ったまま、やさしい養父と母の下で暮らす。
師範学校に通い卒業後、23歳で教師となり25歳で中国人の夫と結婚、3人の娘を生み育てた。
この期間、日本に帰れるかもしれないという機会が2回あったが中国人の配偶者や子どもは受け入れない、親族に帰国後のすべての生活を保障させるなどという日本政府の冷たい政策のためあきらめざるを得なかった。
その間、母は「内地に帰りたい」という言葉を残して病死。民間団体「春陽会」の調査と援助で1990年にようやく帰国することができ、現在、茨城県結城(ゆうき)市に住んでいる。
命の恩人である養父をはじめ中国の人びとへの深い感謝の気持ちは、日中友好協会茨城県南支部の会員となり、ボランティアで中国語を教えている現在の活動につながっている。
(橋本)