私と中国〈938〉
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元・日本語講師
最上 久美子さん
理解し合うことこそ、友好の原点
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子育てが終わって、40歳代で弘前大学聴講生となり中国語を習得、瀋陽市で2回「日本語講師」を勤めた(1989~90年=瀋陽工業大学、2000~01年=瀋陽薬科大学)。それができたのは、日本基督教団牧師のご主人と家族の深い理解と強い協力があったからだ。
「教育の専門家に来て欲しい」と、高校国語教師だった久美子さんに弘前大学を介して招請があった。
1989年は6月の「天安門事件」の影響で、中国の政治環境は不安定だったが、外事処のスタッフや熱心な学生たちに恵まれた。教えた多くの学生が日本の大学院に入り、日本企業や日中の合弁会社でいま活躍している。
講師生活を振り返り、「中国の学生は本当にまじめで、よく勉強する。教師に敬意を表し、退職後も深い交流が続いています」と、嬉しそうに話す。
「日本では中国に悪い感情をもっている人が少なくありませんが、お互いに良く知り合い理解し合うことが大切です。それが友好の原点ですよ」と明快だ。
講師時代以外にも、たびたび訪中し、南京・北京・瀋陽・長春など多くの戦争記念遺跡を見学した。それを通じて「中国が経済的に豊かになり発展しているのを間近に見て、日本が中国で行なった侵略の事実をきちんと認めて正式に謝罪しなければ、日本は本当にアジア・世界で孤立します」と、日本の将来を危惧している。
北京で生まれ、2歳で引き揚げてきた。
「一歩間違えば残留孤児と同じ運命だった」と、結んでくれた。
(宣)