私と中国〈927〉
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前・福岡県連合会会長
一番ケ瀬(いちばんがせ) 宗幸さん
父子2代の友好運動
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「1930年大連で生まれ15年間、中国で過ごしました。大陸の空気と水、食物に育まれ、現地の人びとと共に成長してきた私にとって、中国は祖国。生涯友好運動を続けます」
物静かで温和な語り口のなかから、一番ケ瀬さん(85歳)の父子2代にわたる運動への情熱が伝わってきます。
父親の宗夫さんはビジネスマンとして、戦前「満州」や華北一帯で活躍、日本の敗戦は山東省の青島で迎えました。
こうした生活のなかで、宗夫さんは中国人を見下し差別するような態度を一切とりませんでした。一家5人、食事はいつも中国人のメイドさんたちと同じ食卓。宗幸さんは、メイドさんたちと姉弟のように育ちました。
宗幸さんの、中国への深い思いや友好の心は、こうした暮らしのなかで培われたといえます。
宗幸さんは北京中学時代、15歳で志願、海軍航空隊員として鹿児島の部隊に入隊し、敗戦。戦後は、中国から引き揚げてきた他の家族と共に福岡県田川市に落ち着き、父親と2人で麻生セメントに勤めました。
宗夫さんは、田川市議会議員に選ばれ、議長に就任しながら、日中友好協会福岡県連の役員も務め、59歳で他界。その遺志を継いだ宗幸さんは、日中友好運動に心血を注ぎ、協会の田川支部長や福岡県連会長を歴任。戦時中、炭鉱に強制連行された中国人の「殉難の碑」建立(02年)などに尽力しました。
「鎮魂の碑に参拝した中国人の家族の方が殉難者のなかに知人の名を見つけ、して動けなかった情景は忘れられません」と語り、「強制連行問題の解決は私の生涯の課題」と力を込めました。