私と中国〈859〉
|
元高校教師
宮崎 專輔さん
帰国子弟の語学教育に情熱燃やす |
1945年5月、父の仕事で3歳で北京に渡り5歳で帰国しました。記憶はあまりありませんでしたが、「これが『ルーツ』となり、その後の人生を決めた」と言います。
ほとんど単身で30回以上中国を訪問。「唐詩」に興味があり、東京東村山市の明法高校時代は、漢文を専門に教えました。
その傍ら、縁あって江東区深川八中の日本語クラブで30年近く中国帰国者2・3世に日本語を教えています。教えた生徒の数は約200人。最高齢は50代で、いまは立派な社会人として活躍しています。
長い語学教育の経験を通じて言えることは、「優秀な子も多いです。会話は大体習得しますが、書いたり読んだりができない子がいる」。また、「国の文化の違い、差別、誤解などがたくさん存在し、そうした親子の相談にも乗り、親しくなって解決した例も少なくありません」と、静かな口調で話します。
「憲法9条」「核兵器・原発ゼロ」「日の丸・君が代強制反対」など多方面の活躍をしています。筆者と出会った川崎市の「日中友好クラブ」の副代表も務め、文化、経済、政治などをテーマに月1回の定例会を10年近く続けています。
「尖閣」で揺れる日中関係についても「双方がナショナリズムを煽るような対応はすべきではない。相互理解・協力こそ友好の原点です」と、日中友好協会顔負けの“中国通”でした。(N)