私と中国〈829〉
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元北京放送アナウンサー
木下 専次郎さん
建国直後の中国 電波で紹介 |
建国後の1952年から3年間、北京放送(現中国国際放送局)アナウンサーとして、活気あふれる新中国情報を日本に伝えた。
「放送の合間に流す日本の音楽がなくてね。ちょうど中国に来られた関鑑子さん(うたごえ運動家)にもらった日本の労働歌や平和の歌をよく流したものです」と当時を回想する。
同じ北京放送に勤務していた富枝子さんと帰国後結婚した。いまも当時の中国の友人から絶えず連絡が入る。
終戦を半年後に控えた1945年2月に召集され、関東軍に編入された。8月9日にはソ連との戦闘に参加、僅か1週間足らずで終戦を迎え、シベリアに連行されたが、1年後中国八路軍後方勤務部に配属され、鏡泊湖、綏芬河、嵐山炭鉱などで労働に従事した。
その後、1949年瀋陽市の日本人完全小学校の教員となった。当時の約300人の生徒のなかには、いま日中友好協会で活躍している深谷節子(福岡)、布川雅章(大阪)さんらがいる。
1955年に帰国、故郷埼玉県の協会川越支部に所属したが、「文革」で支部は壊滅。今年5月の埼玉西部支部結成に尽力、副支部長に就任。夫人はその最初のイベントである「漫画展」の実行委員長を務めた。
現在、川越・東松山民主商工会相談役。(宣)