私と中国〈809〉
|
中日文化研究所専務理事
和泉 忠郷さん
「アジア蔑視の考え」克服が課題 |
貿易業をしていた祖父の仕事の関係で、少年時代中国へ。北京の日本人小・中学校を卒業。1944年に帰国し、青山学院卒業後、労働省に就職した。
翌年、全基準労組全国委員長(現・全労働労組)、併せて全官庁労組(現・国公労連)の中央執行委員になった。
1949年の日中友好協会結成準備会には、全官労代表として参加。しかし、レッドパージで失職、民間企業に勤務、その後社長を務めた。
中日文化研究所との関わりは、全官労の情報宣伝部長として、「隣国中国の国共内戦情報取材」が契機。そこで、「元朝日新聞中国特派員で中文研創始者の菊地三郎氏と会ったのが、その後の運命を決めた」と、当時を振り返る。
中文研は、「両国民が協力して新しい国づくりを行うための研究機関」をめざして1946年に創立。中国側は、郭沫若氏が中心になり、日本と縁の深い作家の茅盾、田漢、夏衍らが協力した。
郭氏は、市川市(千葉県)に長く居住した。その郭氏の次男博氏から、在日中の資料1300点が寄贈され、1957年「アジア・アフリカ図書館」が発足した。その後「文化財団」へ発展、東京郊外に「アジア・アフリカ語学院」も併せ経営している。
2000年からは、「研究事業」(「中日文化研究所所報」など)に加え「研修事業」を開始、これまでに中国の研修生1500人を受け入れた。和泉さんは「大企業の研修生は技術をきちんと身につけ、母国で活躍している人も多い」と語る。
“日本人の中国観”を聞くと「日本にはいまでも、戦前からの誤ったアジア蔑視が根強く残っている。これを克服しないと真の友好は育たない」と、83歳とは思えない元気な口調で話してくれた。(宣)