私と中国〈794〉
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日本語教師
菅原 伸子さん
人生の道標となった草創期の青年活動 |
1957年、協会東京都連合会で「青年部」が結成された。
伸子さんは東京の大学の中国研究会の学生だった。結成のために、あらゆる集まりに出かけ、協会をPRした。また原水爆禁止や世界青年平和友好祭(World youth festival)などの署名・募金活動に活発に取り組んだ。
青年部結成の当夜、渋谷公会堂で文化祭も催され実に500余人が参加。出し物の1つに「荷車の歌」でブルーリボン賞を受けた女優・望月優子さんの出演があった。
その時、対談を仰せつかり冷や汗をかいたりしたことなど、とにかく楽しくてやりがいのある日々だった。
中国への関心の原点は幼少期にあった。故郷旭川市の青雲尋常高等小学校の裏に日本赤十字病院があった。日中戦争の傷病兵を慰問する団体の1人に選ばれ、放課後何回か病院を訪ねてお遊戯を披露した。
当時の担任の先生が、わざわざ可愛いらしいチャイナドレスを作ってくれたこと、そしてそれを着て歌ったり踊ったりしたことは今でもはっきりと覚えている。
定年退職後、本格的に中国語を習得した。いらい16年間、中国人に日本語を教えてきた。最初は新宿区教育センターで区内の中国の小・中学生に5年間。その後、中国の大学や語学学校へ赴任。南平市(福建省)、長沙市(湖南省)、北京市、膠南市(山東省)、青島市、泰安市(山東省)など。日本への留学生や研修生が対象だった。
11年間日本と中国を行き来し、多くの知人・友人とも巡り合え、中国はもはや「第2の故郷」と言える存在となった。
青年部時代の交流は今でも続いている。当時の青年部の愛称である「日中(ひなか)57会」のメンバーも多くが健在。「心は少女≠フ気持ちでこれからも日中友好に尽くしたい」と語る笑顔は少女そのものだった。(お)