私と中国〈779〉
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魯迅と内山完造の近所で少年期を過ごした
光吉 敏郎さん
美しい闘魚と内山完造・魯迅の友情 |
和歌山県田辺市で税理士をしている光吉敏郎さんは、今年80歳。高齢ですが、現役です。
しかも、日中友好協会田辺支部長、和歌山県連副会長、田辺市9条の会会長などと、がんばっています。
その光吉さんは、毎年数回にわたり、協会員らを連れて上海と蘇州を訪れます。
「忙しいのに、よく訪中しますね」と人に問われると、「私の里帰りですよ」と答えます。
光吉さんの父は、和歌山県田辺市で特産の貝ボタン製造会社の経営者でした。その父が中国の蘇州市に進出して、一家が蘇州に住み、そこで光吉さんが生まれたのです。
そして、一家が上海に移ったのは1935年。住まいは、共同租界北側の日本人居留地でした。
満州事変、上海事変、日中全面戦争という日本の中国侵略の中で育ちましたが、北四川路沿いには作家の魯迅が住み、内山完造の書店がありました。この2人の友情をつづった界隈です。光吉さんにとって、「今もなつかしい」ところです。
内山完造が、何回も官憲に狙われた魯迅を自宅にかくまった話は有名です。少年期を、こうしたところで過ごした光吉さんは、「私は少年期から、日中友好の歴史的地域で育(はぐく)まれました」と言います。
内山完造は病床にあった魯迅を見舞ったとき、闘魚を水槽鉢に入れて持っていきました。
闘魚は大変美しい魚で、光吉さんが幼年期に、蘇州の自宅の池で追い回した思い出のある魚です。
「内山完造と魯迅の友情は、この魚のように美しかったのだ」と光吉さんは言います。
(裕)