日中友好協会(日本中国友好協会)

日本中国友好協会
〒101-0065
東京都千代田区西神田2-4-1 東方学会ビル3F
Tel:03(3234)4700
Fax:03(3234)4703

HOME > 私と中国 > 2009年1月5日号

私と中国〈772〉

写真

彫刻家
重岡 建治さん

 

北京に日中友好の彫刻

 北京オリンピック開催直前の2008年7月、静岡県伊東市の彫刻家、重岡建治さんは中国オリンピック委員会に作品「家族」を寄贈するために訪中、作品は「鳥の巣」スタジアム近くのオリンピック公園内に設置されました。
 除幕式には中国日本大使館の泉裕泰公使や、中国オリンピック委員会関係者など約80人が参加。
 これは、伊東市の日中友好団体や日中両国の音楽家が北京オリンピックのスローガンである、「One World One Dream (ひとつの世界 ひとつの夢)」にふさわしい作品の寄贈をと、日本オリンピック委員会や中国のオリンピック関係者に働きかけ実現したもの。
 海外の芸術家の作品がオリンピックセンターに寄贈されたのは初めてのことでした。
 重岡さんは語ります。「戦後、父親が北京近郊の部隊にいて武装解除された後、北京に留まり日本人墓地の墓守をしていました。それがオリンピック会場の近くにあったそうです。僕の作品を公園の一番すてきな場所に飾ってもらえてとても嬉しい」
 「家族」は夫婦と子どもが向き合う姿のブロンズ像で、高さ約2bの大作。「家族の絆、人との結びつき、つながりを表現」した作品です。


ジャムスで孤児院生活

 重岡さんは1936年ハルビン生まれ。物心ついたころにはジャムスの「立正堂孤児院」に200人近くの中国人孤児たちと家族8人が一緒に生活していました。
 当時、ジャムスでは多数の孤児や捨て子が続出、父親の材輔さんは県の参事官を辞め孤児院を開設しました。
 「僕の記憶は孤児院の広場で豚や鶏が駆けまわっている光景から始まります。両親は孤児と分け隔てなく平等に接しました。なぜ孤児と一緒にいるのかと疑問に思ったことはありません」。
 1945年8月9日、ソ連軍の侵攻により一家はハルビンへ。1年近くの難民生活を経て命からがら1946年10月、日本に引き揚げました。
 兵隊にとられた父親も半年遅れで帰国、静岡県熱海の山林の開拓地に入植しました。農業や養鶏の生活は厳しく、小学校までの8`の道を登校しながら薪や山羊の乳などを担いで運び家計を助けました。


彫刻家になろうと決心

 中学生のころ、ウグイス笛づくりの内職をしたのがきっかけで彫刻に夢中になります。その後、伊東高校の定時制に通いながら、九州や京都、奈良など歴史の古い観光門前町で一刀彫の実演販売を始めました。
 運命的な出会いは正月の京都近代美術館。館内には澤田政廣や円鍔(えんつば)勝三などの作品が展示されていました。「見事な作品にびっくり。でも1時間くらい見て『僕にもできる』という気になり彫刻家になる決心をしました」。


ローマで学んだこと

 1971年、念願のローマ留学が実現。国立アカデミア美術学校で制作に励みました。恩師エミリオ・グレコ先生の教えのエッセンスが重岡さんの現在の制作ポリシーになっています。
 「最も大切な部分を省略し、見る人の想像力に委ねる。省略は空間をいっそう際立たさせるもの。そして人が乗ったり触ったりして壊れるような彫刻は作らない」。
 「日中友好は今後も発展していくと思う。いつかジャムスやハルビンで個展を開きたい」と意欲的に語ります。(押)

[一覧に戻る]