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HOME > 日中友好新聞 > 2018年1月15日号

日中友好新聞

中国国歌の作詞者
今年は田漢誕生120年
姪の田偉さんに聞く


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田漢への思いを語る田偉さん



 “起て奴隷となるな人民”と勇壮な歌詞で始まる中華人民共和国国歌(義勇軍行進曲)。昨年9月には、全国人民代表大会常務委員会で国歌法が制定されました。
 今年は、中国国歌の作詞者・田漢(でんかん)(1898~1968年)の生誕120周年に当たります。それを記念して、中国ではさまざまな「記念のイベント」が企画されています。田漢の姪で日本で30年にわたり文化活動を中心に活躍し、このイベントの実行委員でたびたび訪中している田偉さんに「田漢と中国」そして「私と中国&日本」について聞きました。



生地に〝田漢村〟建設

 田漢は湖南省の生まれ、田偉さんは、その弟の田洪(こう)さんの4女。田漢生誕の地には、「田漢村」が作られ、田漢文化センターには、劇場・広場・学校などさまざまな施設があります。中国政府は田漢の業績をたたえて、いま日本円で70億円を投じ、空港からこの文化センターへ直行する道路を建設中です。

「文革」の犠牲者

 〝義勇軍行進曲〟は1935年に誕生。作曲は有名な聶耳(ニエアル)。映画「風雲児女」の主題歌でしたが、日本の中国侵略戦争に立ち向かう中国人民の闘いを鼓舞し、また新中国建設の原動力として歌い継がれました。
 田漢は1916年、東京師範学校(現在の筑波大学の旧制前身校の一つ)へ留学、特に日本の芸術に触れ、その後の創作活動の基礎を築きました。また谷崎潤一郎、佐藤春夫、武者小路実篤など著名な作家と交友を深めた日本通の作家でした。
 文学・絵画・音楽・演劇・映画など多彩な分野で活躍していた田漢でしたが、その晩年には悲劇が待ち受けていました。
 1966年に始まった毛沢東の「奪権闘争」だった「文化大革命」で、30年も前に執筆した作品(謝瑤環(しゃようかん)など)が党攻撃の作品だと、こじつけられ、「田漢は犯罪者」として逮捕されました。
 当時、田漢は中国劇作家協会主席という要職にありました。しかし、「紅衛兵」によって弁明も肉親との面会も許されず三角帽を被せられ、引きずり回されたあげく、獄中で水も与えられず、自分の尿を飲まされました。そして獄死しました。 「義勇軍行進曲」は歌われなくなり、代わって毛沢東をたたえる「東方紅(トンファンホン)」が歌われたのでした。

「中国から来た花嫁」

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田漢銅像前で記念撮影(中央が田偉さん)

 田偉さんは1988年、在日華僑の男性(李明暁(りめいぎょう)氏)と再婚し、神戸に来ました。幸せな日々を送っていた最中、45歳の夫が「ステージ4」の癌宣告を受け、「目の前が真っ暗」になりましたが、幸いなことに一命を取り留めました。
 1995年には「阪神・淡路大震災」に遭遇、住んでいたマンションも大きな被害を受け、住めなくなりました。中国政府からは帰国を勧められました。 しかし、田偉さんには「日本に来たもうひとつの目的に、中国文化と日本文化の交流を深めたい」という信念がありました。
 被災者の方々と自分自身を励まそうと、中国から芸術家を招待して、チャリティー慰問コンサートを開催し大きく成功。「これが私の新しい生きがいを決めるものとなりました」と田偉さん。
 震災後、「東方文化芸術団」を結成、チャリティーコンサートを継続、藤沢市(神奈川県)の「聶耳記念祭」はじめ、日中友好協会などの文化行事に参加しています。
 田偉さんは、「人間にとって、いちばん大切なものは『文化』だと思います…私たちは後世に優れた文化を伝えてゆく義務があります。文化を大切にするところに戦争は生まれません」と、力強く結んでくれました。       (大田宣也)
※著書『田漢 聶耳 中国国歌 八十年』(2016年刊行)
▽問い合わせ=李明暁さん方☎03(5946)9818、Eメール ri@tohobunka.jp




中国の国歌

 義勇軍行進曲は中国の国歌として中国憲法に正式に規定されています。
 そのうえで、中国政府は昨年9月「国歌法」を制定し、国家機関、公共団体、学校などの行事での演奏、曲譜の扱いなど運用面の細目を定めました。
 国歌法の制定を報じた人民日報(17年9月2日付)は、国歌特集を組み、田漢と聶耳のプロフィールや業績を紹介、義勇軍行進曲が国歌に選ばれたいきさつなどを伝えました。  それによると、中華人民共和国の建国(1949年10月)に先立って同年9月、当時の指導者・毛沢東、周恩来らが義勇軍行進曲を国歌とすることの可否を検討、「中華民族は最も危険な時にあり」などの歌詞は国歌として不適当というその席の一部意見を抑え、「新中国が安定、安全に達するまでには、さまざまな苦難を経なければならない」などの考え方に立って、そのまま国歌として採用すべきだとの結論に達した経緯を明らかにしています。                         (J)



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