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日中友好協会(日本中国友好協会)

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HOME > 日中友好新聞 > 2017年10月15日号

日中友好新聞

日中友好交流の拠点に
創立100周年を迎えた内山書店
創業以来の伝統脈々と


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上海・内山書店前で左右に立つ内山夫妻(内山書店提供、下の2枚も)



 1917年に中国・上海で内山完造・美喜夫妻が創業した内山書店は今年、創立100周年を迎えました。30年代には魯迅や田漢、郭沫若ら中国の知識人が書店のサロンに集い、交流したことでも有名です。
 創業者の内山完造(1885~59年)は戦後、日中友好協会の初代理事長として、いち早く日中関係の正常化を願い日中友好運動を開始し、友好の懸け橋として多大な貢献をしました。



魯迅ら中国知識人との交流

 内山完造は1885年に岡山で生まれ、1913年、大阪の参天堂(現在の参天製薬)の駐在員として中国に渡り、目薬の宣伝と販売に務めました。
 16年に美喜と結婚、翌年に上海市北四川路の魏盛里(ぎせいり)に内山書店を開業。当初はキリスト教関係書を専門に扱っていましたが、第一次世界大戦(1914~18年)後、日本で民主主義の機運が高まると、取り扱う書籍は宗教関係から科学や歴史、社会主義関連に広がり、客も日本人から中国人へと変わっていきました。


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内山完造と美喜夫

 26年に「3・18事件」(日本の内政干渉に強硬な態度をとるよう段祺瑞(だんきずい)政府に求める学生・市民に軍隊が発砲し、47人が死亡)が発生すると、魯迅は同政府を批判。27年10月、広州から上海に逃れた魯迅は、内山書店で内山と知り合います。内山は中国政府と日本軍から追われる身となった魯迅を匿い、36年の魯迅死去まで2人は友情を深めました。
 日中戦争勃発後も内山は、戦争に乗じた事業拡大に反対し、排日運動が激化しても、中国人も日本人も平等に客としてもてなし、苦難の時代を生きる作家たちを援助し続けたのです。


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魯迅(左)と内山完造


協会初代理事長・副会長として奮闘

 1935年には弟・嘉吉(かきち)に東京で内山書店を開業させました。内山は「中国に対する日本人の態度は間違っている」。「今の本当の中国の姿を伝える書店を」と弟に勧めたそうです。
 戦後、上海の内山書店が中国側に接収されると、内山は47年に日本へ強制送還され、帰国。東京の内山書店を手伝いつつ、800回を超える講演会(日中友好漫談)を全国展開しました。
 また、50年10月、日中友好協会の創立とともに初代理事長に就任、53年1月、在中国日本人帰国交渉のため訪中し北京協定に調印、3万人の居留民の帰国を実現しました。
 その後、副会長として積極的に活動を続けましたが、59年9月、中国人民対外文化協会の招待で病気治療のため訪問していた北京で客死。74歳の生涯を終えました。
 同年11月16日には東京・日比谷公会堂で「日中友好葬」が執り行われ、約1000人が参列。中国からは魯迅の妻の許広平女史のほか、中国人民対外文化協会からの弔辞、中国紅十字会、中国平和委員会などや田漢、欧陽予倩(おうようよせん)からも弔電が届けられました。


内山書店の未来は

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現在の内山書店前で内山深店長(内山宅前・1933年)


 現在の内山書店(東京都千代田区神田神保町)は中国書籍のほか、韓国、タイ、インドネシアなど約4万冊のアジア各国の本や、CD、DVDなどを販売。店長の深(しん)氏は、日中国交正常化の1972年に生まれた若き後継者。創業100周年に当たり「お客様に支えられここまできました。店内で中国語学習本を買い求めに来た日本人学生に、居合わせた中国人客がアドバイスする姿や交流を見かけることもあり、とても嬉しい」と語ります。
 今年5月末に上海で、東京・内山書店の現社長の内山籬(まがき)氏(完造の弟嘉吉の息子)と店長の深氏(籬氏の息子)らが、魯迅文化基金会などが主催する座談会に参加、魯迅の孫の周令飛氏らと交流し、上海万国公墓を訪れ内山完造・美喜夫妻が眠る墓を訪れました。
 「今後も内山書店が人と人との交流に、積極的にかかわっていきたい。初代の土台を引き継ぎつつも、今度は自分なりの土台をつくっていきたい」と語り、「中国では、反腐敗を追求する小説、人口知能(AI)がつくった詩集など魅力的な本がたくさん出版されています。現代の中国を反映している作品をこれからも紹介したい」と、初代の思いをもとに内山書店の未来を見据えました。

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