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日中友好新聞

「共同声明」を基礎に平和友好関係めざす
日中国交正常化45周年
大村新一郎


shinbun

周恩来総理と会見した田中角栄総理大臣(左)(1972年9月25日)
(出典『ともに築こう平和と繁栄』中華人民共和国国務院新聞弁公室)



長く続いた中国敵視策

 今年は日中国交正常化(1972年9月29日)から45年目の節目に当たります。
 第2次大戦は1945年に終わったのに、国交正常化は、なぜこんなに遅くなったのでしょうか。それは、長い断続的な革命の過程の末に1949年に成立した中華人民共和国をアメリカや日本などが承認せず、すでに敗退して台湾といくつかの小島に逃げ込んでいた蒋介石(しょうかいせき)の中華民国政府を引き続き中国を代表する政府と認める立場をとっていたからです。国連の「中国代表」の議席にも、「中華民国」代表が座っていました。
 これは、「すべての国民に対して、彼等がその下で生活する政体を選択する権利を尊重する」(大西洋憲章)という国際関係の大原則に背いて、気に入らない新政府を倒そうとする敵視政策でした。
 その後、占領下にあった日本は、サンフランシスコ講和(1951年9月署名、1952年4月発効)で独立します。しかし、この講和は中華人民共和国も「中華民国」も、つまり日本に対する主要な交戦国であった中国を除外した「単独講和」でした。
 日本は「中華民国」との間で1952年に「日華平和条約」を結びます。これはアメリカの主張する「台湾帰属未定論」にもとづいて「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」への口を開けていました。この「日華平和条約」(日台条約)と日・台「公式関係」は日中関係正常化への大きな障害になりました。


国交回復運動高まる

 当時、日本と中国の間では、人びとの自由な渡航は禁じられ、貿易すら非常に限定されたものでした。当然、日本の国民の間から、日中国交を求める声と運動が大きく広がりました。
 この間に中国では、「文化大革命」(1966~76年)が起こり、それは日本の平和・民主運動などへも大国主義的干渉として持ち込まれ、大きな困難を作り出しましたが、日本中国友好協会は、こうした干渉と闘うとともに、日中国交回復の国民的運動の先頭に立って奮闘しました。
 世界の超大国アメリカも、またそれに追随する日本も、中華人民共和国を認めないという、虚構の上に立った政策を永久に続けることは不可能でした。1972年9月29日、訪中した田中角栄首相と周恩来総理の間で、日中国交正常化の「日中共同声明」が調印・発表されました。


「原点」を振り返る

shinbun

協会本部と東京都連合会による署名運動(1971年)


 「日中共同声明」は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べ、「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」と述べています。
 また日本政府は「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」としています。それは「満洲、台湾及膨湖(ぼうこ)島の如き日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」というカイロ宣言の履行を示すもので、これで正常化のネックになっていた台湾問題は解決されました。「日華平和条約」については、「日中共同声明」発表後、大平正芳外相が記者会見で「日華平和条約は存続の意義を失い終了したとみられる」と言明、これが虚構の「条約」の終末でした。
 「日中共同声明」は、両国が「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」し、また、両国のいずれも「アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団の試みにも反対する」と述べています。
 それから45年の今日、日中関係はまったく隔世の発展をとげるとともに、いろいろな問題も出てきています。そのとき、この原点を振り返ることは大切な意味をもっているのではないでしょうか。
 なお、日本と中国の間の正式の講和は、1978年の日中平和友好条約調印でなされ、それは来年40周年を迎えます。



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