#

日中友好協会(日本中国友好協会)

日本中国友好協会
〒111-0053
東京都台東区浅草橋
5丁目2-3鈴和ビル5階
Tel :03(5839)2140
Fax:03(5839)2141

HOME > 日中友好新聞 > 2017年9月15日号

日中友好新聞

3000人の住民虐殺
加害の史実学び平和追求を
85周年迎えた平頂山事件 井上久士


shinbun

日本軍(関東軍)に殺害された一般人の遺骨800体余りを展示し、
虐殺行為の実態を伝えている「撫順平頂山惨案記念館」の館内(平頂山事件弁護団提供)



事件はなぜ起きたか

 今から85年前の1932年9月16日、中国東北、当時「満洲国」と呼ばれていた遼寧省撫順(ぶじゅん)市のある集落で日本軍(関東軍)による住民虐殺事件が起こった。約3000人の一般人が殺害された。平頂山(へいちょうざん)事件である。
 この事件の前年、9月18日に柳条湖事件が勃発した。関東軍が日本経営の南満洲鉄道を爆破し、中国側の仕業(しわざ)として中国軍を攻撃した謀略事件である。
 東北三省を制圧した日本は、翌年3月1日、「満洲国」建国を宣言。清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を国家元首に当たる執政とした。政府の要人には現地人を任用し、「五族協和」(大和民族・漢族 ・朝鮮族・満洲族・蒙古族)をうたっていたが、実際は日本が支配した傀儡(かいらい)国家であった。
 中国東北では自然発生的に各種の抗日ゲリラ集団(日本側は「匪賊(ひぞく)」と呼んでいた)が生まれ、対日抵抗闘争を始めた。統一的指揮はなく、武器も貧弱で、兵士の練度も低かったが、「満洲国」建国当時、3万人もいたと日本側の資料に記されている。
 平頂山事件の前夜に当たる9月15日夜、その一隊が撫順炭鉱を襲撃した。警戒はしていたものの市内まで侵入され、撫順守備隊は面目(めんぼく)をつぶされた。ゲリラが市内の楊柏堡(ようはくほ)に入る際、通ったのが平頂山であった。報復のため平頂山の住民が血祭りにあげられたのだ。


隠蔽された事件

 日本軍は全住民を家から追い出し、一カ所に集めて周囲から機関銃で掃射した。息のある者を銃剣で刺し、集落に放火した。翌日、遺体にガソリンをかけて焼却、崖を爆破して遺体を埋めた。殺害されたのは、子どもや老人、女性を含む非戦闘員であった。
 しかし何人かの人が、折り重なった死体の下で奇跡的に生きていた。その人たちは、日本軍が引き揚げた後、現場から逃走した。1996年、対日損害賠償請求訴訟を起こした方素栄(ほうそえい)(女性、当時4歳)、莫徳勝(ばくとくしょう)(男性、当時7歳)、楊宝山(ようほうざん)(男性、当時9歳)の3氏は、その生き残った被害者である。
 約2カ月後、中国の新聞にこの事件が初めて報道された。中国政府代表は国際連盟でこの事件を取り上げて、日本を非難した。
 しかし、日本は一貫して虐殺を否定し続けた。「匪賊」捜索中に反撃されたので戦闘となり、犠牲者が出た、これは戦闘行為であって住民虐殺ではないと言い張った。結局、戦争が終わるまでこの事件の真相は、ベールで覆われることになったのである。


被害者の求めたもの

shinbun

楊宝山さん(平頂山事件弁護団提供)


 平頂山事件の損害賠償請求訴訟は、2006年の最高裁で原告敗訴が確定したが、平頂山事件の経緯と被害者の被害事実は東京高裁で認定され、確定した。これは大きな成果であった。原告の方々はまた、一、日本政府の公式謝罪、二、謝罪の碑などの建設、三、事実の究明という要求を提出した。金銭的賠償でない画期的な要求であった。
 その後、原告は高齢で次々と世を去った。今年3月14日、原告にはならなかったが被害者である楊玉芬(ようぎょくふん)さん(女性)が93歳で亡くなり、今では生き残った被害者が1人もいなくなった(正確には母親の胎内で事件に遭遇しその後、出生した周茂勤さんが健在)。
 しかし、平頂山弁護団と支援団体は解散せず、事件の事実を伝え、日中両国の歴史和解と友好、そして日本政府の公式謝罪を求めて、85周年の今年も元気に奮闘している。

(駿河台大学教授・協会本部副会長)




事件現地に記念館
 平頂山事件の現地(現在は遼寧省撫順市内)には「撫順平頂山惨案記念館」が設けられて見学できます。
 事件現場では、1970年夏から犠牲者の遺骨を発掘。72年に完成した記念館に遺骨や遺品を展示しています。07年には新館も設けられました。館内には、長さ80㍍、幅5メートルの展示プールが設けられ800体余りの遺骨を発掘時のままの姿で並べています。
 折り重なったような人体、頭蓋骨、幼児を抱いたままの母親の白骨など、日本軍の虐殺行為の生々しい実態が広がっています。
 館の外には、高さ19㍍余りの殉難同胞記念碑もあります。




[一覧に戻る]

#