日中友好新聞
映画「いつまた、君と~何日君再来(ホーリージュンザイライ)~」
中国からの引き揚げ一家
戦後を生きる愛情物語
石子順
トラックだ!さあ進め!笑いはじけるがー
(「いつまた、君と ~何日君再来~ 」TOHOシネマズ 新宿ほか全国ロードショー!
(C)2017「いつまた、君と ~何日君再来~」製作委員会、配給ショウゲート)
一本の映画がドラマチックに生まれた。
俳優向井理(おさむ)が祖母芦村朋子の手記をテレビドラマ「ゲゲゲの女房」の撮影が終わった後で脚本家山本むつみに渡した。それから7年かけて映画化が進められ、向井理が主演した「いつまた、君と ~何日君再来(ホーリージュンザイライ)~」(脚本山本むつみ、監督深川栄洋)だ。
上海から帰ってきて
1940年に3年越しの文通を経て初めて会えた吾郎32歳(向井理)と朋子22歳(尾野真千子)。日中戦争勃発の年に文通を始めたことになる。除隊して新聞社入社予定だったのだが、吾郎は南京に戻ることを朋子に言った。この時、吾郎の人柄に引きつけられた朋子は「一緒に行きます」と言った。
2人は結婚し南京から上海へと移り、石油会社に働いていて終戦。2人の子どもをかかえて上海から引き揚げてくる。
引き揚げ船でわが子を置いてきた母親のつらさの描写もある。帰国後、故郷の愛媛に戻るが、朋子の婿養子である吾郎に義父忠(イッセー尾形)がつらく当たり、ここにいては父ちゃんがダメになると思った朋子の主張で一家は茨城県に移る。吾郎は中古トラックで運送屋をしようとしたがトラックの故障で失敗。家族のために吾郎は次々と仕事を変わるが成功しない。トコロテン屋もした。セールスマンもした。大ケガもした。
貧乏はずっとついてまわる、だが一家は明るい。笑い声が絶えない。子どもは元気に学校に行き、真美という女の子も生まれる。後に向井理の母(岸本加世子)になるのだ。
祖母のラブレター
手記が祖母と母とをつないだ
祖母朋子(野際陽子)がパソコンで手記を打っている。学生の理がその手伝いをする。過去と現実がまざりあう形で展開する家族へのラブレター。
いじめられたわが子を強くなれと励ましつつ悔しさを爆発させて家を飛び出す吾郎。野原まで追ってきた朋子に吾郎が差し出す一輪の野バラ。外国旅行を絵で描きながら2人で夢見るシーンもある。父が子どもたちに石井漠の真似をして踊ってみせた。
貧乏だが暗くならない。幸せだったとへこたれないところに結びついていく家族の絆が強い。
祖母を語る向井理
祖母芦村朋子さんの手記を本にし映画にした向井理はいう。
「祖母は明るい人で、よく笑いよく食べ、よく飲む人でした」
「おばあちゃん子だったんです。母が仕事をしていたので、祖母と過ごす時間も多く可愛がってもらいました」
向井理は祖父に会ったこともなければ手記を見る前は名前すら知らなかった。
祖母が退院した時に「おじいちゃんのこと、今、どう思ってる?って聞いてみたのですが、そのとき『愛してる』と言ったんです。80何歳とかでそう言えること、そしてその思いをずっとためてきたことを思うと、そこまで思わせる男だったのかと、男として単純にうらやましく思いました」
「夫婦のどちらかが亡くなって何十年と経過していても、相手を思える関係性の夫婦─」それを見せていくのがこの映画の吾郎と朋子だ。
困難な時代から今の時代へ
2人をつなぐ1930年代の中国歌曲「何日君再来」が高畑充希の歌声で響く。思い出の歌として、しみるだけでなく、また会えるという生き方につながっていく歌だ。
吾郎は中国について語らないが、その表情、行動には言葉にならない思いを漂わせている。
「この作品は見る方自身が主人公だと思います。戦後は苦労した人も多く、困難な時代を乗り越えて今の時代があるので、自分の家族、親戚や先祖のことを少しでも振り返って思い出すきっかけになっていただけたらいいですね」と向井理。
中国からの引き揚げ者の戦後の生き方の強さをとらえ、現代につなげていく家族の愛の映画である。
(映画評論家)