日中友好新聞
歌で革命に挑んだ男
ニエ・アル没後80周年で集い
「ニエ・アル没後80年記念・音楽と講演の夕べ」で岡崎雄兒さんが講演
「戦後70年」の今年は、中国国歌義勇軍行進曲の作曲者の聶耳(ニエ・アル)没後80年の年でもあります。11月20日、聶耳が水死した神奈川県藤沢市の鵠沼公民館で「ニエ・アル没後80年記念・音楽と講演の夕べ」と題した「記念の集い」(主催=日中友好協会神奈川県連)が開催され60人が参加しました。
集いでは、『歌で革命に挑んだ男』(新評論=2800円+税)の著者・岡崎雄兒さん(東北公益文科大学非常勤講師)が記念講演。「聶耳の人となり・その業績」を詳しく紹介しました。
革命音楽家、湘南の海に消ゆ
岡崎さんは、聶耳(本名・聶守信)が当時の国民党政府に追われ1935年4月18日に日本に亡命、わずか3カ月の後の7月17日、鵠沼海岸で遊泳中に溺死したことに触れた後、「聶耳とはどのような人だったか」について話しました。
聶耳は、中国では人民の音楽家、革命音楽家として、新中国建国に貢献した100人の1人とされていること、1912年2月15日、雲南省昆明で医者の家に生まれ、早くから音楽に目覚めたこと、軍隊経験もあり、学生運動に参加して当局(国民党)から狙われ上海に脱出。
上海では、タバコ問屋、明月歌舞団、映画会社、レコード会社などで働いたが、作曲した抗日歌曲のあまりの人気ぶりから日本への亡命を余儀なくされたことなど、彼が生きた時代背景を説明しながらその生涯を紹介しました。
人となり・残した作品
聶耳は天才といわれたが、外国人の個人レッスンを受けバイオリンを猛練習するなど人一倍の頑張りを見せた努力の人であったこと、好きだった曲は「ヴォルガの舟歌」「ラ・マルセエーズ」「インターナショナル」など。
生真面目で粘り強い性格であったが剽軽(ひょうきん)なところもあったこと、女優を含め何人かの女性との恋愛もした「情熱的で人間性豊かな」人物であったと話しました。
また映画「風雲児女」の主題歌だった「義勇軍行進曲」がクローズアップされているが、23年の短い生涯に「畢業歌」(「桃李劫」主題歌)「大路歌」(「大路」同)などの映画音楽のほか、児童歌曲の「売報歌」「雪花飛」、民族音楽の「翆湖春暁」「金蛇狂舞」「昭君和番」など、多くの優れた作品を残したことなど、その業績に触れました。
「義勇軍行進曲」が国歌に
「義勇軍行進曲はどうして国歌になったか」の秘話も紹介。
中国では、抗日運動の高まりのなかで「音楽で民衆の心をとらえ、支持をとりつけよ、これは革命が芸術に与える絶対の使命だ」というレーニンの命題に応え、中国全土で抗日救国を掲げた合唱運動が広がっていました。「義勇軍行進曲」の力強く勇壮なメロディーは抗日戦争を戦う兵士や民衆を鼓舞したのです。
1949年9月、中華人民共和国の成立にともない国歌の制定が必要となり、公募しました。しかし良い作品が集まりません。そこで最高指導部で検討した結果、作家田漢が作詞、聶耳が作曲した「義勇軍行進曲」が候補となりました。
ただ歌詞が時代に合っていないと言う意見もありましたが、周恩来が「あの歌詞は人びとの心を打つ」と発言、最後に毛沢東が「それで行こう」と決断し、全員で高らかに合唱したとのことです。
岡崎さんは、最後に「聶耳の生涯を振り返ることで日中の不幸な歴史を忘れず記念碑建設を進めた先人たちに学ぶ必要がある」と、講演を締めくくりました。
「記念の集い」では、増田恒雄神奈川県連会長が「戦争法(安保法制)の廃棄に総力をあげよう」と主催者あいさつ、鮑捷(ほうしょう)さんが中国琵琶を演奏しました。この日は本部・東京・埼玉の各組織からも多数参加しました。
(宣)
聶耳記念碑に献花
碑前で記念撮影
(左からワタナベサトシ、大森猛、中川大一、増田恒雄、田渕裕子、北中一永の各氏)
「記念の集い」に先立ち、聶耳水難の浜辺にある記念碑に、日中友好協会神奈川県連の増田恒雄会長、大森猛副会長、ワタナベサトシ事務局長、東京都連の中川大一理事長、北中事務局長、田渕裕子事務局次長らが献花を行いました。
(北中)