日中友好新聞
太平洋戦争期最大の虐殺
日本軍暴虐の地 湖南省へ
兵庫県連が「友好平和の旅」
「廠窖惨案記念館」正面にそびえ建つ記念碑前で
犠牲者を追悼する日中友好平和の旅参加者たち
兵庫県連合会は3月31日から4月5日まで、「日中友好平和の旅」を実施し中国湖南省を訪問。県連の前田清会長はじめ16人が参加しました。一行は省内で、日本軍による住民大虐殺の跡地を訪ねて犠牲者を追悼し、改めて「不再戦・平和」の誓いを固めました。
1943年5月の作戦で
一行は、4月2日益陽市南県廠(しょう)窖(こう)鎮(ちん)へ。中国への侵略戦争の中で、日本軍は長江〜洞庭湖一帯で中国軍の戦線拡大の阻止、長江の水路確保などを目的に、1943年2月〜3月に「江北殲(せん)滅(めつ)作戦」、4月〜6月に「江南殲滅作戦」を展開、同年11月〜12月には「常徳殲滅作戦」を連続して行いました。
中国側の資料によれば「江南殲滅作戦」中、この廠窖鎮一帯で5月9日からの3日間に中国軍人(敗残兵含む)や住民、近郊からの避難住民など合わせて3万766人が虐殺され、4279人の中国軍兵士が捕虜となり、3000人以上が負傷、2000人以上の婦女が強姦されました。
これは、南京事件に次ぐ日本軍侵略中2番目の規模の大虐殺で、太平洋戦争期(1941年12月〜45年8月)では最大の虐殺事件と言われています。
記念碑前で犠牲者を追悼
一行は「廠窖惨案記念館」を訪問し、正面にそびえ建つ記念碑(高さ約20b)に花輪を捧げ1分間黙祷、白菊の花を手向け、犠牲者を追悼しました。
この様子を近郊住民約100人が終始じっと見守り、同行の新聞記者と現地のテレビ局が取材、「三湘都市報」など地元メディアが即日ネットニュースで紹介しました。
展示室で、当時の資料や写真、日本軍の遺留品などを見学。王志強館長からあいさつを受け、この虐殺事件の生存者3人が当時の様子を証言しました。
先ず、元高校の教師でこの事件を1972年から調査している李波氏(73歳)が証言者3人を紹介、李さん自身は当時3歳だったが、祖母が事件に遭い3日後に亡くなったと語りました。
生存者3人が実体験を証言
日本軍に連行され、腹や腰5カ所銃剣で刺された郭鹿萍さん、目の前で父親が刺殺され自身も脇腹を刺された劉垠山さん(以上2人は88歳で事件当時17歳)、日本兵の殺害を目撃した全伯安さん(87歳、当時16歳)が、それぞれ日本軍の残忍な殺害について語りました。
全さんは「日本軍は3日間に3万人以上を殺害しました。その手段は、@空襲で爆死させるA銃殺B銃剣で刺すC家屋や船に放火し焼死させるD川や池、溝で水死させるE女性を暴行し殺害する、だった」と証言、さらに次のように述べました。
「80歳を超える老人から子ども、婦人、武器を捨て抵抗できない敗残兵を無差別に殺しました。中でも妊婦の腹を剣で裂き、中の胎児を突き刺して放り出すなど、とても人間のやることではありません。また、首に縄をかけ両側から引っ張り殺す、水死させるなど殺人を競っているようで、それはすさまじい光景でした」
3人の生存者が当時の様子を証言
(左から全伯安さん、劉垠山さん、郭鹿萍さん)
腹部刺され意識失う
郭さんは次のように証言しました。
「5月9日前後より日本軍はこの地に爆弾投下を開始。私の家族は両親と姉2人、妹1人と私の6人でした。私の家では、母親と姉妹が先に避難し、家には父と私の2人が残り、日本軍が迫ってくる直前に私と父は近くの親戚の家に避難しました。
10日朝、日本兵が家に入って来ました。そこに避難していた70数人ほどが外に連れ出され、男女に分けられ、男はひもで3組に縛られました。私の組は15人が一緒に縛られ、学校の壁の所にしゃがまされ、1人の日本兵が1人1人順番に突き殺していきました。
4人まで突かれるのを見たが、その後は覚悟を決め目をつむって死を待っていました。 腹に痛みを感じ倒れ、さらにもう一度強く刺されたところまでは覚えているが、その後意識を失いました。意識が戻ったのは夕方4時ごろ。周辺に10数人が倒れ、あたり一面に血が流れていました。一緒に縛られていた人全員が殺されたのです。
この時の状景は言葉では言えません、地獄でした。流血で力がなくなり目の前が真っ暗になり、3回ほど繰り返し、やっと起き上がり時間をかけてひもを解き、はって50bほど先の畑に身を隠しました。
父と私2人が災難に遭い、父親は殺されました。家も家財もすべて焼き払われました」
「平和の旅」を終え、県連の上田雅美事務局長は「このような大虐殺事件がどうして日本ではほとんど知られていないのか、さらに調べて不再戦活動で広く知らせていきたい」と語りました。
(U)