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日中友好新聞

2014年2月25日号1面
二度と許すな戦争への道
後世に伝えるべき悲劇の史実
「中国残留孤児」から学ぶもの
  鈴木 経夫

 

 

          

感無量だった新年会

 

 1月18日午後、東京の台東区民会館ホールで、「残留孤児」原告団の新年会が行われた。原告らをはじめ支援の人たちも多数参加した。原告たちの手製の料理をご馳走になりながら、原告団が次々と演ずる出し物を見学した。30人を超える女性が色鮮やかな民族衣装に身をまとい、優雅に、舞台いっぱいに、笑顔を満面に浮かべて踊る様子を眺めながら、感無量であった。
  国家賠償訴訟の準備をしていたころ、落ち込んでいた原告たちから、このような姿を想像することはできなかった。弁護団の一人として本当に嬉しかった。不十分ではあっても、それなりの支援策を勝ち取り、またその過程で原告として団結してきたことの成果が反映していると思われた。

 

 

皆がもつ深い傷痕

 

 私は、昭和1桁の最後の生まれで、国民学校1年生の会の末席を汚している。弁護団に加入したとき、まず「残留孤児」から個別に話を聞くことになった。満蒙開拓団の逃避行、悲劇についてはある程度知っていたつもりである。友人や親戚にも中国東北部からの引き揚げ者は何人もいる。
  日本の侵略戦争の結果に翻弄されて、中国の原野を彷徨(さまよ)い、辛うじて生き残ったが、両親とは離別し、その後も続いた過酷な運命について、自らの経験を話してもらった。もらい泣きもし、原告たちの顔を見つめるのもやっとということもしばしばであった。
  特に、いわゆる残留婦人から被害状況を聞き取るのは辛かった。その後も経験するが、その体験については全く話してくれない残留婦人にも一人ならず出会った。というより核心のところにいくと話すことができないのある。分かってきたが、やっと癒えかけた傷口をもう一度洗い直すことになるからであった。

 

 

困難克服し全国原告団結成

 

 そのうえで、帰国してきた残留孤児2500人のうち、約70lが生活保護により生計を立てていると聞いて、本当に驚いた。ある人間の集団があって、その7割が生活保護でしか生活できない、というのは明らかに何か異常なことが起きている、と直感的に思わざるを得なかった(なお、当時の日本全体の平均受給率は0・7%に過ぎない)。
  とにかく弁護団の誰もがこのまま放置しておくことはできないと考えた。全国に散らばっている「残留孤児」にも呼びかけようと考えた。
  しかし、これまで支援してきたボランティアたちからは、異口同音に、全国的に原告団を結成することは難しい、なかには不可能と断言する人もいた。しかし結局は原告団は全国規模で結成され、15の裁判所で訴訟が提起された。

 

 

日本人全体の遺産として

 

 ところで、原告らのこの戦争体験は、本当にかけがえのないものである。私たちが聞き取り、陳述書にした分だけでも貴重な資料になると思われる。原告たちのこの体験をもっと多くの人に伝え、ぜひ資料として後世に残したい。しかし、その語り部は次第に消えていきつつある。
  原爆や沖縄の惨劇だけでなく、原告たちの経験も、直接一般市民が経験した戦争被害として、自分の言葉で語り、これを後世に正確に伝えて、日本人全体の忘れることのない遺産としたいものである。
  私たちの世代は2度の戦争経験はしないで済むかも知れない。しかし、最近の情勢は極めて危険な方向に行こうとしている。あれだけの犠牲を払って得た憲法、特に9条の戦争放棄の条文を変更するという議論が、国会議員の間でも公然と交わされるようになってきている。
  情報がないままに、楽園とだまされて行かされた満蒙開拓団、「国の生命線は満洲、死守するしかない」と強制されて団員たちは戦争に巻き込まれたのである。いま、同じようなことが起きようとしていないだろうか。(中国残留孤児訴訟関東弁護団長)

 

 

鈴木経夫弁護士プロフィール

1934年4月24日京都府綾部市生まれ。61年裁判官(司法修習所13期、再任拒否があった期)各地の裁判所をまわり、85年東京高裁判事。90年浦和家裁判事。99年4月裁判官退官。同年9月埼玉弁護士会弁護士登録。中国残留孤児弁護団、関東訴訟弁護団団長、協会さいたま支部理事。

 

 

 

中国残留孤児国家賠償訴訟

 中国残留孤児国家賠償請求訴訟は、02年12月の東京地裁訴訟を皮切りに全国15地域に結成された2211人の原告団が提訴した集団訴訟である。この訴訟の基本的な性格は、「満蒙開拓」を国策によって組織し、日本の敗戦後開拓団員と、その家族を棄民≠ニして放置した日本政府の侵略戦争責任を追及するものであった。同時に戦争に翻弄された人びとの尊厳回復≠フ闘いであった。しかし神戸地裁のみが原告団の要求を認めたが、他の地裁はすべて却下した。原告団・弁護団は日中友好協会などの支援団体とともに内閣総理大臣宛ての100万人署名を達成し、国民世論を背景に政治解決への運動を大きく展開、厚生労働省包囲デモや集会に粘り強く取り組んだ。その結果、安倍首相(第1次)を動かし07年11月、原告本人に基礎年金全額(6万6000円)を支給する「新支援法」が成立。11年からは、原告が死去した後「無年金」となる配偶者(中国人)に対する待遇改善を求め10万人署名を集めるなどの運動によって、13年12月「配偶者支援法」(基礎年金4万4000円支給)が成立した。


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