日中友好新聞
2013年1月5日号1面
日本と中国の平和文化の種子をまく
中野良子さん
2013年新春インタビュー
高倉健と共演した「君よ憤怒の河を渉れ」が1978年に中国で公開されて、中国で絶大な人気となった中野良子さん。
それ以来33年、日本と中国とのつながりをよくするためにさまざまな活動をしてきました。日中関係が“冬”のようななかで新しい年を迎えるにあたり何をすべきかー。
あの映画が中国で大ヒットしたのは
日中友好の種子をまこうと
熱っぽく語る中野良子さん
「それまでの映画は、男が女性を守るということでしたけれど、この映画は女性が男性を守るという新しさがあったからでしょうか」
高倉健の検事がある日突然、殺人容疑者として追われ、日本各地を転々としながら無実を晴らそうとする。それを農場主の娘(中野良子)がかばいつづける。中国題名「追捕」で公開され、10億人が見たといわれるほどに。
「中国が文化大革命という時代を抜け出したばかりでしたから、人が信頼できないという映画の内容が中国社会の現実に似ていて、無実の罪を負わされた人たちが多かったわけで、それを晴らそうとする男と命がけで助ける女に共感されたんだと思います。
撮影は健さんたちとご一緒ですし、私はもう最高に嬉しくて演技していて…この映画を世界のどなたかが見てくださったらいいな−と願いを込めたんです。そしたら、中国でも世界でもいろんなところに運ばれていって−。映画っていうのはいろんな可能性があるんですね」
人気女優が「中国に初めて行った時、大がかりで熱烈な歓迎に驚き、別世界に来た感じで。私は『こんにちは、中野良子です』を中国語で覚えていたのに通訳の人にチェンユウメイって言って下さいといわれて迷いながら言ったら、みんなわーっと何が起きたかと思うほど歓喜の嵐でした。びっくりしてどういう意味なのかと思ったら、真由美−ヒロインの名前だったんですね」。
何十回となく中国に来て日中関係のあり方を考えるなかで「平和文化」ということをめざすようになる。
「当時は日本人というと、まだ厳しい戦争のイメージが残っていました。そんななかでも私たちを明るく迎えて下さって、ああ、私たちも中国の人と一緒になって新しい何かを築いていかなければいけないのかも知れないと感じたんですね。
中国の戦争の記念館にたくさん行きましたけれど、あまりの衝撃に立ちあがれなかったことがあったんですね。互いに争いましたけれど、日本人のイメージ、国民性の誇りというか私たちのこともきちっと理解して頂きたいという気持ちが湧いてくるんですね。
そこからいろんな勉強しまして、日本と中国との平和を守っていくための交流−平和文化を育てるということを考えました。これは中国と出合い、中国を知ろうとしなければ生まれなかったものです」
映画「女優」のオープニングで
あいさつする中野良子さん
(右から2人目、右端は寺西監督)
中国各地で講演やテレビ出演をして95年に南京に相互理解の館を建てたいと思った。維持が大変といわれて、河北省秦皇島に秦皇島中野良子小学校を共に建てた。太陽吸収型という冬でも暖房器具不用の建物で子どもたちに喜ばれ、徐々に平和大使として迎えていただくことに。
「戦争の現場に突入したくないというのが本来の気持ちなんです。だから映画でも音楽でも、みんなが楽しんでいただいて、そういうのが輪になって循環していけば平和文化っていうのが、種子に育っていきますから、今日種子をまいたら育っていきますよね」
昨年の日中関係は厳しかった
中国で大ヒットした
佐藤純弥監督作品
「平和文化をみんなで築いていけるようにしないと。言葉とか映像とかいろんなことを駆使して平和文化を築いていきたい。やればなんとかなる。今までの歴史にない人類の時代を私たちは生きているのですから」
昨年は国交正常化40周年記念映画「女優」(監督:寺西一浩)に出演した。日本と中国との間を結びつけるような役だった。若い世代に平和文化の種子をまくことは大切だ。
2013年には、やはり映画で
「やっぱり映画の特別な役をつくっていただいて、平和文化というメッセージを感じていただくっていうことをしてみたいです。人間だから表現できることを映画で表現できたら嬉しいです」
(聞き手、執筆=石子順)
中野良子さんプロフィール
愛知県常滑市出身。1970年大映演劇研究所をへて三船プロに所属。1971年テレビドラマ「天下御免」で注目される。74年映画「小林多喜二」、76年「君よ憤怒の河を渉れ」と、78年「お吟さま」が同年に中国で公開されて人気になる。映画、テレビと俳優活動を続けながら、中国での平和文化を広げる講演、テレビ出演を多彩に積み重ねてくる。著書に『星の詩』など。