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日中友好新聞

2012年11月15日号1面
ノーベル文学賞受賞に思う
莫言さんと天城を歩く 釜屋修

 中国の作家莫言(Mo Yan)さんが10月11日今年のノーベル文学賞に輝いた。
 うんと前、アジアだ、井上靖か中国の巴金だとの噂が飛び交った年があった。私は朝日新聞社から頼まれ、巴金が受賞した場合の予備原稿を渡して、決定を待った。井上靖についてはさらに期待度が高かった。しかし受賞はこの二人ではなく、他の国の人だった。予備原稿はもちろん使われなかったが、原稿料は半額いただいた。
 今回は村上春樹が外れた。巴金も井上も他界しもはや受賞はならない。そのあと、中国の研究者や若手文学者と話しているとよく「なぜ中国人作家はノーベル賞をとれないのか」と話しかけられた。在仏の高行健の2000年の受賞はあったものの、中国内部の作家にはなかったからである。そんな中で「莫言はどう?」という声も上っていた

 

山東省高密県の出身

 

写真1 日中友好協会
天城湯ヶ島小学校校庭の『白ばんば』記念
の少年像と手をつなぐ莫言さん(99年10月)

 莫言さん、本名は管謨業(Guan Moye)、1955年(1956年説もあり)、山東省は高密県平安村生れ、小学校を出て農業に従事、25歳で軍に入った。「どうして軍に入ったんですか」とおろかな質問をした私に吐きすてるように「為了喫飯(喰うためさ)!」と答えてくれたことがある。
 創作を続けながら軍の解放軍芸術学院に学び、そのあと魯迅文学院修士研究院にも学び、めきめき頭角を現した。1989年日本でも公開された映画「赤いコーリャン」は莫言原作、張芸謀第一回監督作品で、いきなりベルリン映画祭グラン・プリを射止めた。日本でも莫言さんの名が一挙に有名になった。筆名の「莫言」は本名の第二字「謨」を分解したもの、「言うなかれ」の意味にもとれる。
 私が莫言さんと、文通を始めたのは1980年代の後半、『赤い高粱』の翻訳権と資料提供を申し入れ、快諾をもらった。しかし出版社探しの途中で日本のT社と中国の出版社の間に契約ができていて、すでに翻訳を始めているという。莫言さんにその旨を伝えたところ「それは私は知らない」と言っていたが、結局私たちは断念した。

 

99年秋に来日

 

写真2 日中友好協会
莫言さんと初めて会った日
(北京1993年5月) 右は釜屋氏

 1999年秋、青野繁治さんから、莫言さんが在神戸中国人作家毛丹青さんが随行し来日する、私に関東滞在中の日程への協力要請があった。
 莫言さん愛読の川端康成、井上靖、梶井基次郎の文学の跡を辿ろうと伊豆の天城湯ヶ島へご案内することにした。西から来る二人と新幹線三島駅で落ちあい、川端が逗留して『雪国』を書き上げた旅館「湯本舘」、そこにある「川端さんの部屋」、同じころ療養で湯ヶ島にいてしげしげと川端のところに通っていた梶井の宿「湯川屋」、その近くの梶井文学碑、二つの旅館をつなぐ渓流猫越(ねっこ)川等を散策した。二階の四畳半の「川端さんの部屋」で、川端の小さな机の前で座布団に坐り、川端が使った階段に腰をおろしたりして、莫言さんは楽しそうだった。梶井の宿、資料館、文学碑を見、その夜は林野庁の宿に泊った。
 翌日は井上靖の幼少期の小学校へ行き、資料室を見学。莫言さんは校庭の『白ばんば』ゆかりのぬいばあさんと少年(井上)像に感激し、少年と手をつないで記念撮影したりした。旧天城トンネルを抜けるとき、大声をあげて歩く沼津の中学生の一団とすれちがったが、莫言さんはにこにこ見ていた。昭和の森伊豆近代文学館では移築された井上の家を見、昼食。最後に松本清張にもかかわる浄蓮の滝に遊び、三島へ下った。

 

「夢幻」の世界が横溢

 

 莫言さんの文学の手法は「マジック・リアリズム」と呼ばれている。故郷である高密東北郷の自然、幼いころから耳に親しんだ『聊斎志異』等の怪奇の世界、それらから沸いてくるさまざまに豊富な「夢幻」世界、それらが作品に横溢し、欧米文学とは異なったアジア、中国の特性をみごとに構成し、花咲かせている。話題の長編だけではない。数々のすぐれた短篇がある。
 今回の小さな旅でも随所で莫言さん独特の「霊感」が働いていた。夕食とそのあとの入浴は三人で楽しんだが、部屋は別々だった。
 夜中、部屋にはトイレがなかったので、莫言さんは一人で外のトイレに行ったらしい。そのとき、廊下にカランコロンと下駄の響きを聞き、かすかな脂粉の香りを感じたと言う。さらに、明け方一人で温泉に入っていたら、開けてあった手動式の扉がすーっと閉ったと言う。
 翌朝の朝食の席でそんなことを言う莫言さんに私も毛さんも「まさか」と信じられなかったが、そのときも莫言さんは「ほら、今、箸が袋から出て割れた!」などと言って私たちをびっくりさせた。
 廊下の下駄の響きと脂粉の香りには、川端が差し向けた「美しい踊り子」幽霊がいたのだと莫言さんは霊感でとらえたみたいである。
 この時の初訪問の日本の旅を莫言さんは後に「神秘的な旅」と表現しているが、天城山の山と森、美しい川、澄んだ秋の空の中で莫言さんの「霊感」は敏感になっていたかもしれない。
 山を下り、東京に出、夜の新宿で京劇の役者よりも底の高い靴を履いたきゃぴきゃぴの「狐狸姑娘」(狐の化けた娘たち)を見、翌日は新聞社のインタヴューに応じたあと、駒澤大学での「莫言先生を囲む会」で講演「我が文学の歴程」を熱く語ってくれた。
 莫言さん、受賞おめでとうございます。これからもいっそう健筆を揮われるよう祈ります。
 (中国当代文学研究者)

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