日中友好新聞
2012年10月5日号1面
加害への反省と謝罪こそ
緊張と歓迎のなか日中友好協会平和の旅
日中友好協会本部・東京都連合会訪中団による10回目の平和の旅が、都連の諏佐剛央理事長を団長として、本部の田中義教理事長も含め21人の参加で、9月11日出発のノモンハン・ハイラル組と、同15日出発組に分かれ、訪中しました。参加者には、群馬県連会長松永守男さんはじめ、山梨、宇都宮、下関からの参加者もありました。
今回は行程途中から、尖閣諸島国有化の発表を受け、現地で反日デモの影響が懸念され緊張する場面もありましたが、全員無事帰国。予定された行事は一部変更を余儀なくされましたが、ほぼ終えることができました。
平頂山事件80周年式典に参加
平頂山事件80周年記念式典終了後、
遺骨館を訪れた日本の代表団
先発組は、12日に内蒙古自治区のホロンバイル市ハイラル区にある「世界反ファシスト戦争ハイラル記念園」、ハイラル要塞、日本軍遺構を見学し、13日には「ノモンハン戦役遺跡陳列館」と戦場跡を見て回り、14日に、ホロンバイル大草原の美しさと空気のおいしさを堪能。15日には、ハルビンで731部隊の遺構と陳列館を参観し、新幹線で瀋陽(旧奉天)経由撫順のホテルに入りました。
後発組は15日には、田中義教理事長ら代表団が、平頂山事件記念館の周学良館長らと懇談。その後、撫順のホテルで21人が合流し、平頂山事件訴訟弁護団の川上詩朗弁護士を団長とする「撫順から未来を語る実行委員会」、姫田光義団長ら「再生の大地合唱団」とも合流しました。
1000人が列席
幸存者と家族の皆さんにあいさつする
田中理事長(右端)
16日、晴れ渡る平頂山事件記念碑の前で80周年記念式典。会場は混乱を避けるため警備が強化され、参加者も大幅に制限されましたが、学校、職場、軍等の代表が約1000人、日本側も3つの団体合わせて20人列席しました。
国歌演奏、サイレンが響き渡る中で黙祷、撫順市共産党代表、幸存者楊宝山さんの家族、地元中学生に続き、「撫順から未来を語る実行委員会」の小野寺利孝弁護士が日本側を代表してあいさつしました。
小野寺氏は「この悲劇を二度と繰り返さないために、日本政府が平頂山事件をはじめ過去の侵略戦争について、民衆の被害の事実と軍国主義による加害の実態を正しく見つめ、心からの反省と謝罪を行うことを希望します。それが、侵略戦争の正当化や軍国主義の復活を阻止し、平和事業を世世代々に受け継いでいく唯一の道です」と述べました。
平和の鳩が舞う中で「インターナショナル」が演奏され、参列者が献花。
式典終了後、日本側参加者は揃って遺骨館を訪れ、3000人ともいわれる犠牲者のうち約800体の白骨が累々と並ぶ現場を目にして、改めて悲惨な事件を想い起こし、反戦・平和への決意を固めました。
その日の夜、日中友好協会、「撫順から未来を語る実行委員会」、「再生の大地合唱団」の各訪中団合わせて約70人が一堂に会した夕食交流会で、同合唱団の合唱曲が披露され、ホテルで缶詰め状態での練習にもかかわらず、心を込めた歌声に会場は大きな拍手に包まれました。
国際シンポで姫田氏ら発言
17日には、平頂山事件国際学術シンポジウムが開催され、全体で100人余りが参加、事件の学術的検討が披瀝され、内容豊富なものとなりました。傳波撫順市社会科学院院長が主宰、日本側から、相原久美子民主党参議院議員が映像発言し、また姫田光義氏、井上久士駿河台大学教授、川上詩朗氏らが、中国側からも各界からの参加者が発言しました。
撫順戦犯管理所を見学
午後は、再生の大地合唱団を中心に撫順戦犯管理所を訪問し、見学と交流を行いました。平頂山等で中国人を殺し、奪い、焼き尽くした侵略者を鬼から人へと変えていった中国側の展示を見ながら、多くのことを学びました。
合唱団員は所内の庭に咲いていた朝顔を見つけるや、合唱組曲の中の「撫順の朝顔」を思い出して、皆がその種を採取していました。
今年4月に来日して協会本部役員らと懇談した張継承館長、李偉副館長らが案内。大きく掲示されているその際の記念写真に眺めいりました。
見学後、会議室で合唱団が練習してきた「再生の大地」を披露、管理所職員の大きな拍手に包まれました。その後、所内のレストランで夕食が用意され、管理所職員が所内で栽培した野菜の料理がふるまわれ、厳しかった今回の訪中を締めくくる、緊張感が和らいだ懇親の場となりました。
館長はじめ所員に心からの感謝の気持ちを伝え、再会を誓って夕闇に包まれた管理所を後に帰途につきました。(田中義教・岡村芳雄)