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日中友好新聞

2012年8月5日号1面
中国革命を鼓舞した「義勇軍行進曲」
いまも引き継がれる“聶耳(ニエ・アル)”の業績
藤沢市で生誕100周年行事

 間もなく開幕するロンドンオリンピック。勇壮な中国国歌「義勇軍行進曲」が幾度となく表彰台を賑わすことでしょう。作曲者は中国の革命家・芸術家の聶耳(ニエ・アル)。その「生誕100周年記念行事」が77回目の命日・7月17日、神奈川県藤沢市鵠沼海岸で盛大に行なわれました。

 

 協会神奈川県連が主催した「ニエ・アル生誕100周年祭」には50余人が参加、伊藤敬一本部名誉会長が「聶耳はどんな時代に活躍したか」と題して講演、中国映画「ニエ・アル」が上映されました。

 

優れた才能、20曲もの名作

 

写真1 日中友好協会

ニエ・アル

 

 ニエ・アルは幼少から音楽が好きで、生誕地の雲南省昆明の少数民族楽器に親しみ、歌や音楽を聴くとすぐ譜面に書くほどの能力をもち、本名は聶守信(ニエ・ショウシン)でしたが、友人がその天才的な聴覚に驚き、名前に「耳」をつけたというエピソードがあります。僅か23年の生涯で「漁火歌」「波止場労働者の歌」「大路歌」「自衛の歌」など20曲もの名作を残し、芸術家として非凡な能力を発揮しました。

 

革命家として生きた生涯

 

 同時に、ニエ・アルは革命家としても優れた才覚をもっていました。1929年の世界大恐慌は中国にも及び、日本軍閥が大陸に進出、1931年の柳条湖事件(満州事変)はじめ日本の中国侵略を目の当たりにしたニエ・アルは「音楽も民族の危機を救うために服務しなければならない」と21歳で中国共産党に入党、のちに大きな影響を与える劇作家・田漢(義勇軍行進曲の作詞者)など進歩的芸術家と知り合い、急速に革命家として成長していきました。

 

「義勇軍行進曲」誕生秘話

 

写真2 日中友好協会

献花する田中本部理事長(左)と
増田神奈川県連会長

 1930年代に革命的芸術家として彼の作曲した歌は、多くの映画の主題歌となって中国の民衆の心を捉えました。これが大合唱となり広がったとき、国民党(蒋介石)政権はニエ・アルの逮捕・弾圧に向かいました。
 その情報を密かに入手したニエ・アルは、ソ連への出国を考えていましたが、ひとまず1935年4月、日本に亡命しました。そして出国前に映画「逃亡」の主題歌「自衛の歌」(いまの「義勇軍行進曲」)の原符を作りました。
 当時中国で活動していた吉木正さん(90歳・現協会神奈川県連顧問)は「義勇軍行進曲は、実は日本で完成させたのです。出国時は未完成品でした。この話は、私と交友のあった田漢から聞いた話です。ニエ・アルは命と引き換えにこの作品を創ったのです」と当時を回想します。

 

盟友趙丹、碑前で号泣

 

 協会が、「日中国交回復40周年記念事業」として取り組んでいる「新中国草創期の映画」のひとつ「ニエ・アル」で主役を演じた中国の名優・趙丹は、役柄の上だけでなく、中国革命の盟友・戦友でした。
 趙丹は1962年、日本の映画人の招待で訪日し、藤沢市鵠沼海岸の「ニエ・アル記念碑」を訪れました。
 碑には秋田雨雀氏(詩人・劇作家)の筆になる「耳を傾ければ、われわれは、今日なお聶耳のアジア解放の声を聴くことができるであろう…ここは聶耳終焉の地である」(1954年)と記されています。
 「碑文に見入った趙丹は、しばし沈黙のあと強く長く慟哭した。趙丹の脳裏には、31年前の上海埠頭での出来事が去来してやまなかったのだろうか。趙丹は国民党の手を逃れて、故国を離れる聶耳を、暗い石壁に立って見送った日のことが、そして新中国の誕生を見ずして、異国の地で果てた聶耳を…」と、この時同行した故・秋山峰生氏(協会神奈川県連理事長=当時)は、目前で見た感動を語っています(同氏著『日中友好と聶耳の生涯より』)。

 

ニエ・アルの偉業永遠に

 

 ニエ・アルは1935年7月17日午後、友人と遊泳中、鵠沼海岸で帰らぬ人となりました。しかし、その精神と偉業は中国国民に引き継がれています。「義勇軍行進曲」がいまなお中国国歌として歌い継がれていることにそれが示されています。(大田宣也)

 

記念碑前で記念式典
藤沢市長、中国大使夫人らが列席

 

写真3 日中友好協会

汪婉中国大使夫人があいさつ

 7月17日、午前9時30分から、藤沢市鵠沼海岸の「聶耳記念碑」前で、「藤沢市聶耳記念碑保存会」主催の「生誕100周年集会」が開催され約200人が列席しました。
 式典では、枡居祐三記念碑保存会会長、鈴木恒夫藤沢市長、汪婉中国大使夫人があいさつし、「聶耳の業績と日中友好の発展の大切さ」を表明しました。続いて献花に移り、田中義教協会本部理事長、増田恒雄神奈川県連会長が紹介されました。
 式典には、協会本部、神奈川県連、東京都連、千葉支部などから約20人の役員、会員が参列しました。

 

 聶耳の生涯
 1912年2月15日、中華民国雲南省昆明の薬種屋の四男として出生。4歳で父を失い、母の手ひとつで育つも生活は困窮。幼少期から横笛・胡弓・三弦・円琴などを習得。雲南省師範学校でバイオリン・ピアノを習う。1929年上海の職業歌舞団に入団「大衆のための歌舞」を主張。1933年国立北京大学芸術院音楽科を受験するも、国民党教官により入学できず。その後、田漢の指導する「ソ連の友社」の音楽サークルに参加、音楽創作活動を開始。国民党の革命的文化人弾圧から逃れ、日本に亡命。田漢と旧知の秋田雨雀と会う。
 1935年7月17日、藤沢市鵠沼海岸で遊泳中に事故死。

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