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日中友好新聞

2012年4月15日号1面
蘇る 懐かしの「新中国草創期の映画」
日中国交回復40周年企画
その魅力と、思い出 そして今日的意義を語る!

 今年は「日中国交回復40周年」。それを記念して、新中国建国時(1950年〜1960年代)に次々と製作され、日本中国友好協会によって全国各地で上映された中国映画がDVDで蘇ります。今回、第1次として登場するのは「白毛女」「農奴」「ニエアル」「阿片戦争」「五人の娘」「大暴れ孫悟空(アニメ)」の6本。当初から製作や上映に関わってきた伊藤敬一(本部名誉会長)、徳永淳子(東京都連副会長)、石子順(映画評論家)の3氏に「その魅力・思い出・上映の今日的意義」などについて語っていただきました。司会は大田宣也日中友好新聞委員長。

 

「白毛女」の誕生秘話など

 

写真1 日中友好協会
映画「白毛女」のスタッフと出演者
(徳永淳子氏提供)
前列左から6人目が田華
その左隣が李百万

 (司会)60年以上も前の映画ですね。まさに“蘇る 懐かしの映画”です。まずは当時の想い出などから・・・。
 (伊藤)何といっても「白毛女」の印象が一番です。当時(1953年)私は東京都立大学の中国文学科の助手でしたが、「革命後の中国映画がどんなものかぜひ見たい」と思い、職員組合主催で「『白毛女』鑑賞会」を大講堂を満員にして開催しました。
 実に単純素朴で、地主と小作人の間に生死を分けるほどの絶望的な格差があった中国の暗黒社会で農民の怒りが爆発して一気に地主を葬り去ると、たちまちまばゆいばかりの明るい新社会が実現する、という底抜けに素朴で楽観的な、夢物語のような画面を、正面切って堂々とまじめに突きつけられると、当時の日本とのあまりの違いを感じながらも、不思議な感動を今でも覚えていますね。
 (徳永)私は解放後の中国の映画作りに関わってきました。「新中国の映画づくりの主な課題」の原点は、1942年の毛沢東の「文芸講話」〜文学・芸術は、労働者・農民・兵士に奉仕するという指導方針にあります。これにもとづいて政治性が強調され、共産党の政策、宣伝、啓蒙運動として位置づけられたのです。
 それと並行して、ソ連の新しい演劇や映画理論の学習も行われました。同時に日本人技術者による中国人技術者の育成も急務でした。
 私は1950年、妹とともに解放軍から長春映画製作所に移りました。文工隊の抗米援朝への派遣、建国1周年に向けての映画作り、新生中国にとって厳しい試練の年で緊迫した情勢のなかで新中国初の試みとしてプレーバック(前期録音)方式の映画として「白毛女」が作られましたが、出演者、スタッフ一同ハラハラ、ドキドキの毎日でした。
 (石子)私は「白毛女」を1950年に中国の長春の映画館で見ました。満員でした。映画館の雰囲気が違いました。そのころの映画館は中国映画がないのでソ連映画が毎週かかっていました。初めて見る中国映画にみんなわくわくしていました。私も、自分が日本人であることを忘れて「白毛女」を見ました。
 映画見物というより、旧社会をそこに見つめなおそうという雰囲気でした。喜児の田華の可憐さ、それが地主に踏みにじられていく姿に場内は静まり返り、地主が廟で白毛女にやっつけられると拍手が起こりました。白馬にまたがって大春が駆けてくるシーンは「好ハオ!」と声がかかり拍手喝采。
 喜児の白髪が黒くなって映画が終わってもみんな席を立つものがなかった。喜児の気持ちになりきっていたのですかね。しばらくすると嵐のような拍手。私も拍手しました。泣けました。女性は涙をふいていました。映画館が翻身(生まれ変わる)場になったのです。映画のもつ力に感動しました。
 (徳永)1945年、延安で初演の歌劇「白毛女」を歌い、解放区の人たちや解放軍の兵士たちを魅了した有名な歌手王昆さんの歌う“喜児”を、録音ステージの片隅で聴いたときの感動を今もなお忘れることはできません。ヨーロッパ風のオペラではなく、中国土着の発声法といいますか、何とも言えない響きが“喜児”のなかに浸透していくようでした。
 河北省の伝説「白毛仙姑」をもとに「魯迅芸術学院」(1938年延安設立)が集団創作した革命歌劇だと、私の夫(元第二野戦軍文工隊所属、映画「白毛女」の脇役として出演)から聞きました。

 

識字率20%「目で見る」宣伝が重点

 

写真2 日中友好協会

喜児を熱演した田華
(徳永淳子氏提供)

 (徳永)建国当時(人口4億)の統計によると、識字率は20%程度。宣伝活動の形式は文工隊による歌舞、街頭劇、寸劇、歌舞劇などでした。日本の侵略や悪党地主に虐げられてきた農民たちが相手をやっつけ解放を勝ち取る。
 舞台を見て、地主“黄世仁”(陳強さん)に「殺してやる!」と襲いかかる、石を投げる、“喜児”に「早く逃げろ!早く!」と叫んで自分たちが主人公となったような気分になって、舞台に駆け上がろうとする勢いに出演者たちは身の危険さえ感じたと言っていました。
 抑圧された人びとの階級意識の向上と楽しみに文工隊は大きな役割を果たしました。そして建国1周年の新中国映画の第一作として〈白毛女〉の映像化にこぎつけたのです。
 (石子)田華も軍隊の文工隊のメンバーだったのですね。「白毛女」で喜児を演じて田華はその可憐さと新鮮な美しさでたちまち中国のアイドル(人気女優)になって小学生まで「田華は好き!」と言ってました。
 映画「白毛女」は、51年にチェコ国際映画祭で特別栄誉賞を受賞して、新中国にこういう映画があるという存在を示したのです。代表団の一員として田華は外国に行きましたから、世界でも新中国を代表する映画女優として知られたのです。
 (続きは次号の紙面に掲載)

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