日中友好新聞
2012年1月5日号1面
2012年を迎えて―新春インタビュー
山田洋次監督 日中映画交流を語る(上)
新春早々、山田洋次監督の脚本・演出で初春新派公演、水谷八重子・安井昌二主演の「東京物語」が東京の三越劇場で上演されます(1月24日まで)。また、2011年に撮影する予定だった「東京家族」は、3・11東日本大震災のため撮影を中止、今年3月から撮影開始をめざして脚本を改稿中です。
多忙ななか、本紙のために山田洋次監督は日中映画交流、中国からの引き揚げのことなど縦横自在に話していただきました。その語り口をそのままお伝えします。
(聞き手、石子順)
北京電影学院で
旧制高校で習ったのは中国映画の主題歌だったと語る
山田洋次監督(押見真帆撮影)
―監督生活50年目の2011年6月には、日本映画週間で北京に行かれましたね、どうでしたか。
前から行きたかった北京電影学院で「山の郵便配達」の霍建起監督たちと懇談会をして、「母べえ」を学生に見てもらったんです。やっぱり映画大学ですね、身の入れ方が違うのかな。よく笑ってよく泣いてくれたんです。
その時に学生諸君に話したんですけど−僕は中国映画については特別な思いがあります。1948年ですか、山口の旧制高等学校に入った時、中国語の時間があったんですよ、中国人の若い先生がいて教わった。
その先生は、まずはじめに「みんなこの歌を聞きなさい」といって蓄音機でレコードをかけてくれた。流れ出た歌声が「漁光曲」、1930年代の蔡楚生監督の中国のレジスタンス映画のテーマソングだったんです。
まずこれを覚えようといわれて棒暗記みたいにしてくり返し歌っていたから、いまでも歌えますと言ったら電影学院の学生は拍手してくれてね。その映画を見たのはずっと後になってからですが。
「白毛女」と中国映画
引き揚げ直前までいた
大連の家の前で
(写真提供 濱田雄一郎氏)
>―中国映画とのつきあいは。
「白毛女」は、僕たちは学生時代に見てます。そのころはイタリアンネオリアリズムの時代でしょ、ロッセリーニやフェリーニにいかれていた学生としては余りにも素朴な映画だなという感じ。ただしあの当時の学生は中国に対して憧れをもっていましたからね、新中国に。だから毛沢東の国がこんな映画を苦しい条件の中で作っているんだなという感動がありましたね。
「文化大革命」のあとで何度か映画使節団で行きましたけど、1970年代の中国映画はひとことでいうと「白毛女」の時代よりも稚拙な感じでした。
でも中国映画の質が向上するのにはそんなに長い年月はかからなかった。あれあれという間に陳凱歌や張芸謀が出てきてね、「黄色い大地」「赤いコーリャン」とかを見てびっくりしました。芸術的にレベルが高いし表現が力強い。
日本の映画はもうかなわなくなるんじゃないか、今までは教えなきゃいけないと思っていたものが、もうこっちが学ばなければならないという、日本の映画人にとっては衝撃でした。
「文革」後の新しい時代が来て禁じられていた外国映画の上映の始まりに日本映画が少しずつ公開されました。有名なのは佐藤純弥監督の「君よ憤怒の河を渉れ」で、それから僕の「遙かなる山の呼び声」、あと寅さんなんかもたくさんの人たちが見てくれました。張芸謀とか陳凱歌たちも学生時代に僕のそういう映画を見て勉強した。だからお二人とも僕のことを老師、老師と呼んでくれますけどね。
霍建起監督の「山の郵便配達」はなんというのかな、日本の映画人としては足元すくわれたような感じでした。
映画はお金のかかる芸術ですから、どうしても経済性が監督の頭を占める。企画を立てる時にはまずお金の問題を考えてしまい、そんなことで、わずらわされて失敗作も多い。
低予算映画という発想を若い監督はしがちだけど、「山の郵便配達」という低コストの作品には、そういうあさましさがない、安く作ろうなんて考えていないけれど実にいい素材をとらえました。あの親子を追いかけながら人間に対する優しいいたわりの気持ちと同時に文明に対する批判、批評があってね。
霍建起監督って僕は好きですね。ふた月くらい前かな、僕の今度の映画のロケ地の広島県の小島に行った帰りに、なんとその霍建起監督と田舎の町で出会ってお互いびっくりしてね。日本で作る映画の下調べに来てたそうだけど。
(続きは本誌にて)