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日中友好新聞

2011年11月15日号1面
上海に遺る「魯迅臨終の図」
奥村博史・平塚らいてうの平和への願い
米田佐代子

 

魯迅没後75年の記憶

 

写真1 日本中国友好協会 平塚らいてうの会提供

晩年の博史とらいてう(平塚らいてうの会提供)

 今年は魯迅生誕130年、没後75年である。
 1936年10月19日の魯迅死去当日、上海滞在中の一人の日本人画家が魯迅宅を弔問してデスマスクをスケッチ、油彩画にして魯迅夫人の許広平に贈呈した。その画家こそ、今年創刊百年を迎えた雑誌『青鞜』の創刊者平塚らいてうの夫、奥村博史である。
 日中戦争により一時は絵の所在も不明だったが、戦後上海の魯迅記念館が所蔵していることが分かった。許広平は1956年来日の際、病気のらいてうを見舞うとともに、博史への謝辞を述べている。
 この事実は、らいてうの自伝『元始、女性は太陽であった』戦後編(1972年刊)に出ているが、最近までほとんど注目されず、絵も常設展示されていないため、記念館を訪ねる日本人の目に触れることもなかった。
 筆者は2008年に上海の魯迅記念館を訪問、収蔵庫に保管されていた原画を見る機会を得たが、そのとき記念館関係者の話や王国偉氏の著書『魯迅与日本友人』(2006年刊)によって、生前の魯迅に会ったこともない博史が藤野先生や内山完造とならんで魯迅の「友人」として紹介され、「日中友好のさきがけ」と評価されていることを知った。

 

内山書店と奥村博史

 

写真2 日本中国友好協会

奥村博史の油絵「魯迅臨終の図」
(上海魯迅記念館所蔵・筆者撮影)

 博史を魯迅と結びつけたのは上海内山書店の内山完造だった。弟の内山嘉吉が橋渡しをした。彼は博史と同じ成城学園の絵の教師だったことがあり、博史とも親しかったのである。
 当時、内山書店の店員だった中村享の子息、佐藤明久氏は、内山書店を訪れて完造と話し込む博史を見かけたという父親の記憶から、魯迅を迫害から守るため細心の注意を払っていた完造が、博史を信頼したからこそ魯迅の「遺像」を描くよう依頼したのではないか、と推理している。それはなぜか。
 博史は、柳宗悦らの民藝運動にも関心をもっていた。中国各地にスケッチ旅行に出かけ、そこでみた日用の食器や手桶などを「工藝の真髄」と賞賛している。
 このときすでに上海では抗日運動が高揚、目の前で爆弾が破裂することもあったが、「自分は…ものを善い方にばかり考える」から「安心している」と、翌年まで中国にとどまり続けた。こうした姿勢が完造に通じたであろうことは想像に難くない。
 戦後の「画歴」年譜には、当時のことが「中国に魅惑されるもの多く」とある。上海滞在中親しくなった洋画家、陳抱一の遺児が戦後日本にやってきたときも、自作の指環を贈って歓迎している。らいてうも、こうした交流を見守ってきた。

 

日中戦争と平塚らいてう

 

写真3 日本中国友好協会

魯迅故居(筆者撮影)

 だが、日中戦争が拡大の一途をたどった1941年2月、らいてうは日本のかいらいとなった汪兆銘政権に対し「アジア人のアジア」という平和世界建設を期待する文章を書く。
 なぜこのような文章を書いたのか。それは決して戦争容認ではなく、博史と同じように日中両国民衆の平和と友好を願う希望の表現であったに違いない。
 しかしこの発言は、日本の中国侵略の本質を見抜けない「歴史的錯誤」にほかならなかった。このことに、戦後のらいてうはどう向き合っただろうか。
 戦後、沈黙のときを経て再出発したらいてうは、日本国憲法九条の「非武装・非交戦」を支持し、1950年には中国を除外した単独講話に反対して、上代たの・野上弥生子ら著名な女性とともに声明を発表、平和運動を起こす。
 1954年、中国紅十字会代表・李徳全の来日歓迎会あいさつでは「過去の日本の犯した大きな罪を愧じる」と述べ、日本の女性が戦時中無権利のゆえに無力で戦争を阻止できず、中国人民を苦しめる結果となったことを詫びた。このとき同時に、中国にも「武力によらない平和を」と呼びかけたことが記録されている。その姿勢は、博史が1964年に72歳で死去した後も一貫していた。

 

世界にほんとうの平和を

 

 中国の民衆を愛した博史と、1971年85歳で亡くなるまで女性の権利と平和な世界を求めたらいてう―2人は「世界にほんとうの平和がもたらされる」(博史の詩より)ことを願い続けてともに生きたのである。「魯迅臨終の図」は、2人の真摯な生き方のあかしとして遺されたような気がする。いつかこの絵を多くの人が見る機会のくることを願っている(拙稿「奥村博史と『魯迅臨終の図』」平塚らいてうの会紀要2号参照)。(女性史研究者・らいてうの家館長)

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