日中友好新聞
2011年9月5日号1面
花が好き、歌が好き、平和が好きで日中友好を
10周年迎えた紫金草合唱団 大門高子
中国で学校教科書にも登場
平和と日中友好のうたごえ活動を幅広く展開している「紫金草合唱団」が今年、第7次訪中公演で10周年を迎えました。
今回の訪中団団長の大門高子さん(日中友好協会東京北支部)にその思いを語っていただきました。
戦争からも災害からも命を守りたい
オーケストラとともに 南京理工大学にて
2011年3月26日
今回の南京への訪中公演に取り組んだのは、東日本大震災直後の3月24日から28日。実施すべきかどうか大変悩みました。二転三転しながら、どんな時にも戦争や災害から命を守る取り組みを大事にすべきだと実施を決めたのです。
訪中団の参加者は82人で、紫金草の花咲く大学や南京大虐殺記念館での演奏や市民との交流は10周年にふさわしい、感動的な意義ある取り組みとなりました。
東北からの参加者もあり、中国の人たちからも至るところで復興への励ましをもらいました。今回上海の日本人オーケストラの皆さんが参加してくれたことも素敵なことの一つでした。
「不忘歴史、面向未来」の思いで10年
南京理工大学和平園の紫金草
日本軍が南京市民にしたことは、人間として何とひどいことだったか…
紫金草は日中戦争のさなか、南京郊外にある紫金山から日本に持ち帰った鎮魂と祈りの花です。この花のことを知って、絵本『むらさき花だいこん』(大門高子文 松永禎朗絵)と組曲「紫金草物語」(作詞=大門高子、作曲=大西進、編曲=山下和子、張勇)を創作しました。
10年前、初めての南京演奏の時「こんな内容で果たして南京市民は受け入れてくれるのだろうか」と、とても不安でした。中国の人たちは真剣に聞いてくれ、深い懐で受け止めてくれました。
第1次公演の後「紫金草物語」を中心に歌う合唱団が、博多、大阪、奈良、東京、千葉、茨城、金沢、仙台など全国に生まれました。その後国内各地での演奏、そして南京、北京、上海など、7回の中国公演に取り組んできたのです。
今回は、大虐殺記念館の野外での演奏も印象的でした。鬼の日本軍兵士の展示を見た後の野外の会場は平和の搭の下、新しく作られた紫金草花園と少女像の近くでした。
演奏が終わった後も立ち去り難い人がたくさん残って、その場で歌の交流が続いたのです。記念館でこんな場面は初めてのこととか。聞いてくれた中国人の中にも「さよならはいいたくない」と泣きながら歌う人もいました。
10年前、初めて虐殺記念館に行った時向けられた眼差しは、身の置き場のないほどの悲しさで胸が痛みましたが、この10年間、紫金草の周りではいつも握手と笑顔と歌声があふれてきたように思います。
中国でも愛される花に
紫金草少女像
全国の紫金草合唱団員は「花が好き、歌が好き、平和が好き、そして人間が好き、中国が好き」を思いに、支え合って10年間取り組みを続けてきました。先日も広島のある団員夫婦から、「紫金草に取り組んできた10年は幸せだった」という声が聞かれました。
団員にとっても、紫金草の取り組みが、日中友好を願い「不忘歴史 面向未来」(歴史を忘れず、未来に向かって)の生きがいとなっているとしたら、とても嬉しいことだと思いました。
中国の人たちもこの花を愛するようになり、紫金草は今や南京でも、平和を願う日中友好の象徴として大事にされるようになりました。5年前の「南京平和フォーラム世界会議」では、参加者全員が紫金草の花のコサージュを胸に会議に参加するように取りはかられていてびっくりしました。
それまでは、ただの「二月蘭」という野の花だった紫金草が今は「日中友好・平和の花」となったのです。
市民と心通う楽しい交流を
紫金草の取り組みが紹介されている中国の教科書(表紙)
紫金草の訪中ツアーでは、いつも舞台演奏だけではなく継続した交流を大事にし、南京だけでも10団体とさまざまな形で交流してきました。
野外音楽台で一緒に歌ったり、演芸集団の昆劇団や市民合唱団と、そして南京大学の学生と紫金山ロープウエーで登ったりと、交流を通して人間としての温かさを知りあうことができたと思います。そうした取り組みや演奏会は「平和の使者」として受け入れられ、いつも新聞やテレビなどでも報道されてきました。
今回、新たに紫金草の取り組みが学校の教科書で紹介されていたことも知りました。歴史教育として、こういう日本人もいると2ページにわたって子どもたちに伝えてくれていたのです。
今年は紫花絨毯のような南京理工大学の和平園(「平和の花園」と命名)の紫金草も、ひときわ美しく鮮やかに咲いていました。
小さな花ですが、「友好の野の花」紫金草を「反中国」の風の中で枯らせてはならないと思っています。