日中友好新聞
2011年7月25日号1面
和歌浦の跡地に案内板設置実現へ
今年の辛亥革命100周年にちなんだ企画の一環として、孫文と親交を結んだ植物学者・南方熊楠(みなかたくまくす)の交遊の史実と、その顕彰をめざす協会和歌山県連の活動について、同県連会長・橋爪利次さんに聞きました
孫文と熊楠が料亭で再会
西湖に似た和歌浦の風景
(下の写真も)
ロンドン時代に親交を重ねた孫文と植物学者の南方熊楠(1867〜1941年)が、イギリスで別れてから3年半後の1901年(明治34年)、万葉の景勝地として知られる和歌山市・和歌浦の料亭「芦辺屋」で会い、密かに旧交を暖めたことが熊楠の日記に記述されています。
日中友好協会和歌山県連は、早くからこの料亭跡地に、「二人が再会した場所」と明示した案内板の設置や観光パンフへの明記を、各方面に提起してきました。
最近、その実現に向けて明るい見通しが出てきました。県連は「最初は小さい案内板であっても日中友好と地元の観光と活性化に役立ち、今年の辛亥革命百周年の年としても意義があります」と強調しています。
ロンドンで交遊重ね
前列中央が熊楠の甥を抱く孫文
後列左が熊楠
南方熊楠と孫文の交遊は1897年3月、ロンドンの大英博物館で始まり、7月に孫文がイギリスを去るまで3カ月間、毎日のように大英博物館、ロンドン大学などで会っては語り合い、互いの宿舎を訪れたり食事を共にしたと、熊楠の日記に記されています。
熊楠は1900年10月に帰国。和歌山市内の実弟の常楠宅(酒造家)に滞在し、すぐに和歌浦に近い円珠院に移り、隠花植物の研究に着手しました。
ここに、ロンドン時代の知人から孫文の横浜の滞在先が知らされてきて、孫文との文通が始まり、1901年2月13日、孫文が通訳を連れて和歌山に熊楠を訪ねました。
案内板設置呼びかけ
1960年代初め、橋爪県連事務局長(当時)が小山周次郎紀伊民報社長、須川寛文和医大講師の案内で田辺市の南方熊楠の旧宅を訪れ、熊楠の長女、文枝さんらと会い、熊楠の研究室だった部屋で熊楠の残した粘菌標本など研究資料を見せてもらった後、文枝さんから「父は日中友好の人でした」という感想を聞きました。
県連では早速、熊楠と孫文の交遊の資料を作成して中国に贈り、交遊記録を中国研究誌に発表。さらに和歌浦での再会跡地に案内板設置の提起を始めました。
2006年2月、この呼びかけに賛同した和歌浦自治会連合会会長、和歌の浦観光協会会長、和歌の浦フォーラム代表が加わり、橋爪県連会長と4人連名で、「二人の再会跡地」に速やかに案内板を設置すること、併せて和歌浦と西湖の関係について和歌浦観光案内に明記するように、と県と市に申し入れました。
さらに橋爪会長、雑賀光夫、由井勝両副会長、岡本弘雄理事長、田野裕司、林幸三両副理事長らが木村良樹和歌山県知事(当時)と懇談し、大艸主馬副会長らも加わって大橋建一和歌山市長とも会い、案内板の早期実現と中国杭州の西湖との関係重視を要望。席上、知事と市長の賛同を得ました。
和歌浦はその後、「国指定の名勝地」となったこともあって、実現が遅くなったそうです。
西湖の景色取り入れた和歌浦
和歌山県連ではまた、中国文化の摂取に熱心だった紀州徳川藩が、和歌浦の景観整備にさいして随所に杭州の西湖に模した建造物を配置し、西湖に似た景観が見られることを、観光案内板や観光パンフなどで紹介するようにと、県と和歌山市に要望してきました。
05年秋には和歌山県連の訪中団が杭州市の人民対外友好協会を訪問し、雑賀光夫団長(県連副会長・県議)から、孫文と熊楠の再会案内板の設置運動や、和歌浦と西湖の関係の歴史と景観について説明し、和歌浦の景観写真と歴史資料を贈りました。
杭州市の同協会代表も「これはすばらしい」を連発、「皆さんの要望の実現と日中交流に期待します」と表明しました。
同県連は、案内板実現を契機に孫文と熊楠の交遊に関する研究会、講演会、散策会などの開催や、観光案内パンフへ二人の再会と西湖と和歌浦の関係を明記するよう市当局などに要望を続けると述べています。