日中友好新聞
2011年2月15日号1面
人間感情の回復を描く
馮小剛監督 映画「唐山大地震」を語る
中国映画のヒットメーカー、馮小剛監督が来日した。「唐山大地震」は、中国映画として2000万人が見て最高の興収6.6億元(1元は約12.5円)をあげた。今回の来日は「唐山大地震」日本公開の宣伝のためだったが、1月17日に神戸で阪神淡路大震災の「1.17希望の灯り」に参加、「四川大地震のときには日本からボランティアがたくさん来てくれたことに感謝しています」と謝意を表した。
地震から地震へ
馮小剛 監督
とにかく会いたかった監督である。握手した。
「唐山大地震」を撮ったきっかけは唐山市の依頼と短編小説「余震」があったからだ。
すさまじい映画だ。
「この映画は地震の破壊力やエネルギーを描くスペクタクルではありません。もちろん地震は建物すべてを破壊したが、人間の愛する気持ちは壊されなかった。家族の絆まで奪うことはできない。そういう人間の姿を描きたかった。人間感情の回復が大きなテーマとなっているのです」
地震発生、家々が倒壊して人びとがまきこまれていくシーンは息をのむ。だが破壊を乗り越えていく人間の気持ちを大事にしている。
唐山大地震から23年後の四川大地震までを描く。これは映画化に着手して準備中に思いがけなく四川大地震が起こったショックからであり、別れ別れになった母と子が地震から地震へと生き抜き再会するきっかけにした。
馮小剛(フォン・シャオガン)
1958年生まれ。現場からのたたきあげで、コメディーの「夢の請負人」「ミレニアム・ラブ」など、毎年正月映画を名優・葛優と組んでヒットを続け、赤字知らずの監督となった。章子怡の「女帝」、「戦場のレクイエム」とシリアスものを撮ってこれもヒット。08年のロマンチック・コメディー「狙った恋の落とし方。」では北海道ロケをして中国に北海道ブームを起こした。この正月も続編が大ヒット。ヒットメーカーの条件は「映画の撮影がない時は観客とともに映画を見てその好みは何かを判断すること」という
母と娘の絆と愛
母と双子の姉弟との幸せなひとときが…
(C)2010 Tangshan Broadcast and Television Media Co., Ltd. Huayi Brothers Media Corporation Media Asia Films(BVI) Limited All Rights Reserved.
父は即死し、双子の子どもが生き埋めになった。救出班がどちらかを早く助けなければ死ぬと母にいう。母のぎりぎりの選択は…。
これは母と娘の映画だ。娘を死なせたという母の意識の重み、母にすてられたと思う娘の痛み。
「女性の生き方に対しての理解は私より深いと思うので女性脚本家に二稿目を書いてもらったのです」
この脚本家は「山の郵便配達」で日本中をうならせた霍建起監督夫人の思蕪だ。生と死との葛藤と母と娘の絆をたくみに描いて成功した。
5ヵ月かけて撮影が終わって興奮したが、編集しながら受けるかどうか不安になった。だが大ヒットした。
「観客が受け入れてくれたことに感動した」と、馮監督は率直に喜びを表す。
女優・徐帆が熱演
『唐山大地震−想い続けた32年−』
3月26日(土)全国ロードショー
提供・配給:松竹
(C)2010 Tangshan Broadcast and Television Media Co., Ltd. Huayi Brothers Media Corporation Media Asia Films(BVI) Limited All Rights Reserved.
母親役を熱演するのは、監督が「徐先生」と呼ぶ夫人であり女優の徐帆だ。
その評価は、「彼女は純粋な人だ。5年前に娘が生まれてから演技がよりよくなった。母としての力が、この映画で愛する娘をすてるという心臓をえぐられるような母の痛みを表現してくれた」という。
コメディー映画のベテランだが、深刻な映画にも取り組むようになった。それはシリアスなものは自分に近いわけで「年のせいです。年輩の人をとりたいわけで−」
コメディーからシリアス映画へと人間描写の幅を広げて、まさに中国映画を代表する監督だ。いま5歳の「子どもが可愛い。天使だ」と笑った顔がすてきで人間らしくて、また大作を撮るだろうと、その創造力の源を感じさせた。(石子順・映画評論家)
唐山大地震
1976年7月28日午前3時24分、人口100万人の河北省唐山市で起こった20世紀最大の地震。
マグニチュード7.8(直下型)、23秒で24万2400人の死者、16万4600人の重傷者を出し、4200人の子どもが孤児となった。市内の2階建て以上の建物の80〜90%が倒壊し、工場の97%以上が損壊。市街の完全復旧には10年を要した。当時は「文化大革命」(1966〜76年)による社会混乱の末期で、中国政府は「地震発生」は発表したものの、被害状況を公表せず、日本はじめ国際的支援をすべて断った。被害の実態が明らかにされたのはずっと後年だった。(編集部) |