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日中友好新聞

2011年1月15日号1面
孫文に命をかけ
日中友好の原点築いた 梅屋庄吉
辛亥革命100周年を迎えて

 2011年は、中国の辛亥革命(1911年)の100周年に当たります。清朝を打倒し中華民国を樹立したこの事業で中心的役割を果たした孫文と、彼を命がけで支えた日本人梅屋庄吉の深い結びつきは、日中友好の原点を築いた史実として輝いています。
 その物語を北中一永さん(協会東京都連・新宿支部事務局長)に語ってもらいました。
 辛亥革命については、今後も本紙で何回かにわたって取り上げる予定です。(編集部)

 

孫文と「松本楼」

 

写真1

梅屋夫婦と孫文(中央)
小坂文乃さん提供

 働く人びとのオアシス―東京の都心に位置する日比谷公園。その一角にたたずむ欧風レストラン「松本楼」に2008年、中国の胡錦濤国家主席が訪れた。
 「松本楼」には、経営者の小坂家によって、梅屋庄吉と孫文、宋慶齢にかかわる遺品が多数保存されており、胡主席はそれを見たいと望んだからである。宋慶齢愛用のピアノが胡主席を迎えた。
 梅屋庄吉は、孫文の辛亥革命を助け、新しい中国誕生の穴を掘った功績の第一人者でありながら、戦後も長くその事績を知られることがなかった。
 彼は「ワレ中国革命ニ関シテナセルハ孫文トワレトノ盟約ニテ成セルナリ」として、死後もこのことを一切口外してはならないと遺言したためである。
 辛亥革命100周年を迎える今年、あらためて梅屋庄吉がなした真の日中友好への貢献を検証することが私たちの重要な課題である。

 

孫文との出会い

 

 梅屋庄吉は、中国革命の父と呼ばれる孫文が終生、心から信頼を寄せた数少ない日本人であった。彼は映画事業で成功した。現在の日活の創始者の一人である。
 現在価格に直せば1兆円とも2兆円ともいわれる資金援助を通じて中国革命の黎明を支え、すべての財産を中国革命に注ぎ込み、財産は残さなかった。日中友好の歴史のなかでも、これほど無欲無私で、剛毅な人物はいなかったといえよう。
 庄吉と孫文が初めて出会ったのは、1895年(明治28年)、庄吉が香港で営んでいた写真館の一室であった。これが運命の出会いとなった。
 当時の中国は、アヘン戦争の敗北後、欧米列強の分割化が進み、疲弊して、清朝打倒の機運が広がりを見せていたころである。
 16歳でハワイから帰国した孫文が見た中国は、旧態依然として世界の動きから取り残された国の姿と、国民の悲惨な状態であった。孫文は29歳、梅屋庄吉27歳。孫文は共和制の実現を説き、人民の愚民化と膏血を絞ることのみ考える清朝を批判し、庄吉に支援を訴えた。
 孫文の一語一句に共感した庄吉は、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と、その場で生涯かけて支援することを約束した。
 「孫文から聞いた革命についての考え方、計画、理想、そのすべてにはなはだしく感激した」と、後に述懐している。

 

日本亡命の孫文と庄吉夫婦

 

 辛亥革命の成功後、孫文は袁世凱との政争に敗れ、傷心の末日本に亡命してきた。庄吉は妻トクとともに、孫文を慰め、精神的な支えとなり、健康や身の回りの面倒を見た。
 庄吉夫妻の大きな功績のもう一つは、宋慶齢との結婚をおぜん立てし、孫文の強力なパートナーが生まれることになったことである。
 1915年、現新宿区百人町にあった梅屋庄吉邸の2階大広間で宋慶齢との結婚披露宴が催された。すべては梅屋夫妻が按配し、「会場正面には8面の金屏風が立てかけられ、青磁の大花瓶には吉祥のしるしの菊が生けられ」ていたという(『孫中山与宋慶齢』晨光著・団結出版社・中国)。
 結婚に当たって庄吉の妻トクは、新婦の花嫁衣装から布団の用意など、親代わりになって世話を焼いた。
 1916年、袁世凱死去で孫文は中国に帰った。

 

孫文の死後も

 

写真2

孫文の遺体が安置されていた西山廟の前で記念撮影。梅屋庄吉は前列中央の和服姿(小坂文乃さん提供)

 1925年「革命いまだ成らず」と言いつつ孫文は死去。北京で孫文の亡骸と対面した庄吉は、30年前の出会いを振り返り、「先生とは天下の事を談じ、中日の親善、東洋の興隆、また人類の平等について全く所見を同じうし…」と語って嗚咽した。
 その後、庄吉は4体の孫文の銅像を自らデザインして造り、中国に送った。今もその銅像が南京の孫文中文記念館ほか、広州、マカオにある。

 時代の波は、しかし庄吉の思い通りにはいかなかった。「満州事変」勃発後も、蒋介石と通信し、早く戦争を終わらせようとした。そのため憲兵隊から「スパイ」の嫌疑をかけられ身柄を拘束されるなど、苦難に遭う。
 依然日中和平への思いは強く、1934年、広田弘毅外相から会談の招へいを受け、病を押して上京の途中、千葉県三門駅のホームで倒れ他界した。最期まで日中友好にかけた庄吉らしい死であった。
 (写真の提供者・小坂文乃さんは梅屋庄吉のひ孫)

 

辛亥革命とは
 1911年に中国で起きた民主主義革命。辛亥の年だった同年10月10日の革命派による武昌蜂起を発端に革命の動きが全国に拡大、君主制の清朝を打倒し、孫文が臨時大総統に就任して12年1月、共和制を宣言、中華民国を建国した。しかし、清帝退位を実現したものの革命勢力が弱体で、当時の力関係の下、孫文は同年2月、大総統の地位を北洋軍閥の袁世凱に譲るに至った。袁は大総統委譲のさいの孫文との約束を破って軍閥支配の反動政治体制を築き、革命派を圧迫、孫文は反袁の第二革命を起こしたが、敗れた。
 このように、辛亥革命の成果は挫折したが、この政治的変革の結果、中国の王朝体制に最終的なピリオドが打たれ、共和国体制の下で、民衆が主体的に社会生活や政治に参加しようとする民主的精神状況を生み出した歴史的意義は大きかった。

 

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