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日中友好新聞

2010年9月5日号1面
「平和のバトン」わたす熱意に燃え
長谷川順一さん
戦跡ガイド、400回・6000人

 東京都内のA級戦犯合祀で有名な靖国神社。戦争資料を展示する同神社内の遊就館。それらを「第一級の戦争遺跡」として、案内する人がいます。協会新宿本部の長谷川順一さん(73歳)。東京の戦争遺跡を歩く会のメンバーとして、戦跡ガイドを始めて10年間、今まで約400回、延べ約6000人を案内しました。

 

原点は父親の戦争体験

 

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靖国神社「斎館」前で
「勅使参向」を説明する長谷川さん

 1937年、東京新宿生まれ。生まれてすぐ、長谷川さんのお父さんは第2次上海事変で出征。長谷川さんがガイドを始めるきっかけも、中国と関わるきっかけも、お父さんの軍歴と関係があります。
 金沢連隊の輜重(しちょう)隊員として、1937年、南京占領の後方を担当。「父が運んだ砲弾・銃弾によって、中国人が殺された」という思いがあります。
 お父さんが亡くなったのは、長谷川さんが16歳のとき。歯科技工士見習い、オート三輪の運転手、セールスマンをして家族を支えました。新宿区議28年の経験が、戦跡ガイドに役立っています。
 2000年から戦争遺跡のガイドを始めました。当初、依頼の多くは日本平和委員会ほか、関係する団体からでした。
 しかし、60歳から手がけたパソコンでホームページを作り、06年から戦跡ガイドのブログを書くと、それを見た人から依頼されることが増えました。若い人が4割、ときには外国人も案内します。

 

炎天下、沖縄の教師らを案内

 

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靖国神社の「招魂斎庭」跡に造られた月決め駐車場で
神社の教義と経営状態を説明

 8月17日、沖縄県高教組の教師14人を案内。靖国神社と遊就館、戦中に海外で死亡した身元不明の遺骨が安置されている千鳥ヶ淵戦没者墓苑、戦傷病者史料館しょうけい館をめぐりました。
 長谷川さんは「平和のバトン」という言葉を使います。ガイドする時間はそれを手渡すバトンゾーン。限られた時間ですが、日本の軍国主義の残酷さを、ユーモアを交え伝えます。「ここは、(靖国神社にとって)魂を招魂する大切な場所。なのに、今は駐車場になっています」と、神社の月決め駐車場で国家神道の教義と靖国の経営について語ります。
 遊就館では、三八式歩兵銃や手榴弾のところで、「これは天皇から預かった大切な武器、なので勝手に民間人に渡すことなんてできません」と、沖縄戦の集団自決が一兵士の判断ではできないことを説明。遊就館の展示を使い、つぎつぎに軍国主義の矛盾を暴露し、案内してゆきます。
 偶然居合わせた一般観覧者も、長谷川さんのガイドを聴こうと集団に加わり、フロアがいっぱいになる一こまも。
 「沖縄も今、米兵がいるだけで問題がたくさん起きています。今日(靖国神社や千鳥ヶ淵を)案内してもらって、あらためて平和が大切だと思いました」。参加した男性教師の感想です。
 ガイドを通して憲法九条の大切さを伝えたい、その思いが伝わっています。解散のとき、「たしかに、みなさんに平和のバトンをお渡ししました。あとは、沖縄に帰って生徒にも渡して下さい」と長谷川さんがあいさつ。教師の皆さんは力強い返事で応えました。

 

「まだまだ続ける」意気込み

 

 ガイドは歴史だけでなく、天皇制や宗教、兵器さまざまな知識が必要とのこと。家には、壁一面にそれらの本が並びます。気力や体力、知識だけでなく、家族の理解も必要なよう。
 猛暑の日だけでなく、嵐の日に案内した経験もあります。体力的に大変そうですがいつまで続けますか?との問いに、「靖国はバリアフリーだからね」。その笑顔には「まだまだ続けるぞ」という思いがこめられているようでした。
 また、10年かけて新宿区に働きかけ「新宿区平和マップ」を作った長谷川さんの夢は、遼東半島から略奪され、靖国神社の境内にある獅子を中国に戻すことです。

 

「731部隊」追及で成果

 

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父が戦地から送ってきた写真(ホームページ「長谷川オフィスニュース」から)

 長谷川さんの活動で見落とせないのは、731部隊問題の追及です。
 新宿区議会議員だった1989年。旧陸軍軍医学校跡地から人骨が出てきたとき。「731部隊の持ってきた中国人の骨かもしれない」、そう思い、その人骨問題の担当に。731部隊と中国のハルビン、『悪魔の飽食』を読んでいたので、きっと中国と関係あるだろうと判断し、この問題に取り組み始めました。自分が戦争を知っていたということと、父親が中国へ行っていた兵士だったことが、直接のきっかけ。
 91年に初めて共産党の議員としてハルビンへ。その後、遺棄毒ガス事件や731部隊の裁判で、十数回も中国東北部へ行き、これらの真相解明や責任追及に尽力しています。防疫研究室跡地の発掘作業も、今年の秋から開始。「骨はまだまだ出てくるだろう」と、長谷川さんは言います。(東)

 

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