日中友好新聞
2010年3月15日号1面
中国の人びとの心に刻まれた「功績」
天安門楼上をデザインした画家 小野澤亘
小野澤亘という漫画家がいた。そしてこんな画家がいたのかと驚かされ、感動する。画家・小野澤亘。1949年の開国大典といわれる国慶節のため北京の天安門楼上のデザインをした日本人だ。
09年、建国60周年記念劇映画の一本に「天安門」(監督=葉大鷹)という大作が公開された。1949年10月1日に行われる国慶節パレードに備えて天安門の飾りつけをするようにと命じられた抗敵劇社舞台美術隊の創造活動と労働を描いたものである。その隊に上野という名の日本人兵士がいて飾りつけで大きな役割をする。この映画を見た時、この兵士は小野澤亘をモデルにしたのではないかと思った。(取材・文=石子順)
1935年に中国へ
晩年の小野澤亘
『電影創作』1996年5月号
裏表紙より
小野澤亘は1909年に東京で生まれ、1995年に亡くなった。夫人もすでに亡くなられて、小野澤亘の実弟で画家の故・おのざわさんいちさんの夫人とし子さんを訪ねたところ、貴重な資料が残されていた。北京電影制作所発行『電影創作』1996年5月号で、そこに小野澤亘の「華北電影隊の日々」という一文と、天安門を飾った経歴が紹介されていた。
小野澤亘は、1935年に中国に渡った。大田耕士(のちに宮崎駿の義父となる)たちと風刺誌『カリカレ』を編集しているが、日本プロレタリア美術同盟の活動で警察に狙われたのだ。
「白毛女」の舞台美術を担当
映画「天安門」から
左は隊長、右は小野澤亘のモデル
北京では『北京漫画』という雑誌などにかかわった。1945年、日本の敗戦直後に、中国人同僚で地下工作者の梁津と北京を自転車で脱出、11月に八路軍下の張家口に入った。ここで人民劇院の汪洋、劇作家の鐘敬之と出会った。すぐに抗敵劇社の歌劇「白毛女」の舞台美術を依頼された。小野澤亘の小野と中国語で同音の肖野という名で、カメラマン沙飛もいた晋察冀軍区所属の八路軍文化工作員となった。
「白毛女」の主演女優の田華たちとは同じものを食べ同じ所に寝て美術工作に活躍。国共内戦の激化で張家口から撤退したあとも各地で宣伝漫画やスローガンを描き、汪洋が隊長の華北電影隊員として巡回映画活動にも加わり似顔絵を描いた。
天安門を飾ったアイデア
小野澤亘作の彫塑が使用されたマーク
49年に解放された北京に入城。そして与えられた大きな仕事が天安門上のデザイン。初めの案は上級の許可にならず、小野澤亘がひねり出したのが楼上に巨大な提灯を8個もかかげるというアイデアで、このデザインが通った。10月1日、毛沢東はこのようにして飾られた天安門上で建国宣言をした。
筆者が小野澤亘から直接聞いた話では、「天安門の毛沢東肖像画。一番初めのは帽子をかぶっていますが、私が描いたんですよ。高い所で描いてると、下にいっぱい見物人がむらがって大したもんだなんて声がかかったものです」。
49年には汪洋が所長となる北京映画制作所が成立。全作品のトップに映し出される北京映画制作所のマークの労農兵像の彫塑も小野澤亘が制作したのだ。
今も生きつづけるデザイン
小野澤とし子さん
1995年9月6日、小野澤亘が亡くなった時、中国から多くの弔電、追悼文が届いた。「そのなかに女優・田華さんの心のこもったその死を悼む弔電があったのですよ」
「私の兄は湖南作戦で戦死、さんいちも1938年に南京まで兵隊で行っています。兄弟のなかでも長かったのは亘さんです。帰国された時、弟のさんいちを新聞記者と間違えるほどでしたよ。やさしい人でした」と、とし子さんの言葉だ。
小野澤亘は解放軍の大佐待遇だった。中国のためにいかに大きな貢献をしたか、うかがうことができる。日本に帰国後、漫画家として活躍、本紙にも漫画を連載した。しかし中国でのことはあまり語らなかった。その仕事の一端が60年たって映画になったのだ。中国人は100歳になった小野澤亘を忘れていなかったのである。
天安門は何回も修理、改築されたが、小野澤亘のデザインは今も天安門上に生きている。
映画「天安門」とは
映画「天安門」は建国50周年映画に葉監督が企画していた。いろいろな事情で10年延びたものである。美術隊長に28日で国慶節の天安門を修復し飾れという秘密の特別任務が与えられる。彼らが入った天安門は蛇が棲むほど荒れ果てて無残だ。そこを掃除しつつ考え出した第一案は却下された。日本人の兵士が描いた天安門上を大提灯で飾るアイデアが採用される。この場面、さらさらとラフ・スケッチを描くところに的確な描写力を見せる。彼らは天安門の飾りつけのための大提灯を作る職人を探しはじめる。彼らが協力しあって仕上げた天安門上に明かりが赤くともるシーンが美しい。隊長のモデルは蘇凡といい、女優田華の夫であり、小野澤亘の親友でもあった。歴史秘話の発掘映画だ。(日本未公開)