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日中友好新聞

2010年2月25日号1面
日本と中国の友情を
こまつ座公演「シャンハイムーン」
魯迅を演じる村井国夫さん

 文豪・魯迅の臨終に立ち会った妻と、内山完造ら4人の日本人の感動的物語―劇団こまつ座は2月22日から3月7日まで、東京・新宿南口の紀伊国屋サザンシアターで「シャンハイムーン」(作・井上ひさし、演出・丹野郁弓)を上演しています。魯迅を演じるのは、個性派俳優として映画やテレビ、舞台などで活躍している村井国夫さん。ご自身も中国とは浅からぬ縁があります。

 

父と「日中友好」

 

写真1

 日中友好協会が今年、創立60周年を迎え、とくに内山完造は協会の初代理事長だったことを述べると、村井さんの表情がゆるみました。
 「実は、私の父も九州で日中友好協会に参加していました。日中友好という言葉を聞きながら育ち、家には中国語の毛沢東全集がズラリと並んでいました。父は、兄弟で『村井洋行』という建築会社を中国で設立し、私が生まれた天津のほか、北京、上海にも支店を出すなど、手広く事業を展開していました。
 私が日本へ引き揚げたのは1946年。しかし父は抑留され、1954年、最後の引き揚げ船、興安丸で帰ってきました。中国人の中で仕事をしていましたし、上海のフランス租界地に逃げたとき、匿ってくれたのも中国人です。時代の体制と友情とは別に存在するということです。おふくろも中国人に助けられたとよく話していました」

 

魯迅と内山完造の友情

 

写真2

稽古場の舞台セットでのインタビュー

 魯迅の臨終に立ち会った4人の日本人の1人が、上海で書店を経営し、日中文化サロンを開いていた内山完造でした。魯迅は、このサロンを通じ、谷崎潤一郎や林芙美子、村松梢風ら多くの日本人作家と、「排日」や「抗日」の声を超えて気軽に交流していました。
 「魯迅は、明治以降、ヨーロッパの影響を受けて大きく変革した日本にあこがれながら、中国を何とか変えたいという強い意志を持っていました。帝国主義の日本を心底憎みながら、一方では日本人を心から愛する―なかでも内山完造との友情は特筆すべきことです。日本人とか中国人とかのくくりではなく、人間が寄り添って生きていくことと友情の大事さを演じていければと思います」

 

井上作品の魅力

 

 井上作品には、1973年初演の「藪原検校」(やぶはらけんぎょう)を観劇して以来、いつかは出演したいと願っていたそうです。その魅力とは―。
 「先生は、人間の中に内在している悪とか善を怜悧な目で見ています。そこから、日本人の戦争責任であるとか、日本人が負わなければならない罪過というものをはっきりおっしゃっています。藪原検校を見たとき、芸術史上主義というか、思想的なものを抜きにやってきた自分に、冷水を浴びせられた気がしました」
 今回、井上ひさしさんからは「おおらかに伸びやかに演じてほしい」というメッセージが寄せられたといいます。

 

変革を願った魯迅

 

 魯迅は1936年に亡くなりますが、物語は肺結核が進行していた1934年のことです。その前年の2月、小林多喜二が特高警察に虐殺されると、魯迅はただちに「日本と支那との大衆はもとより兄弟である…(略)われわれは堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ」という弔電を送ってきました。
 「儒教4000年の中国で、それまで文語体だった小説を魯迅は口語体に変えました。その頃の中国は90%が文盲だったので、みんなが読めるように、同胞に書物を、と考えたのです。つねに時代を変革したい、国を変革したい、人びとを変革したいという革命の人でした。だから、多喜二に対しシンパシーを感じたことは理解できます」
 最後に、魯迅の晩年の姿が載っている『沙飛の写真集』を村井さんに渡すと、次のように話してくれました。「日本と中国の関係は、まだまだいびつです。いつか、友情というか、人間を理解し合える状況になることを祈って、この舞台をやっていきたいと思います」(文=福田和男、写真=岡村芳雄)

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