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日中友好新聞

2009年3月5日号1面
日中友好の先達・魯迅と親交
内山完造没後50年
渡辺 襄

 今年は内山完造没後50周年に当たる。内山完造の盛名は、厳しい日中関係が続いた1930年代に上海を舞台に魯迅と切っても切れない濃密な関係をもち、戦後はいちはやく日中関係の正常化を願って行動し、建国10周年の記念行事に中国に招かれているさなか客死したことでも知られる。その生涯は現在、日中友好を推進するものに限りない勇気とロマンを与えてくれる。

 

目薬セールスマン体験

 

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内山完造

 内山完造(1885―1959年)は岡山県吉井村(現在の井原市芳井町)の生まれ。1913年参天堂(その後、参天製薬)に入社、中国で目薬の宣伝と販売に務めることになった。

 このときの持ち物は1冊の聖書、賛美歌と内村鑑三の『聖書の研究』40余冊で、早朝にそれらを取り出しては読み続けたという。
 当時は、第1次世界大戦が始まり、ヨーロッパ各国の対立抗争をよいことに、日本は中国に対して権益拡大の野心を露骨にする。対華21カ条の強要は、中国人の排日活動にさらされる。
 内山は排日スローガンに不快感を示す多数の日本人に向かって日本の非道を責め、中国側の経済抗議は止むを得ないという態度を示した。そのころ参天堂の社長にあてた手紙には「商売の方ではご期待に副うことはできないかも知らんが、必ず中国について何か日本人のいまだ知らないものを握って報恩します」と書いた。

 

内山書店の開店、魯迅との出会い

 

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魯迅

 1916年、井上美喜子と結婚し、翌年、上海の北四川路魏盛里に小さな書店を持った。最初は日本語の聖書と賛美歌を取り扱うだけだったが、商売は順調で1923年(大正12年)、内山書店を本格化し、文学書・専門書も扱うようになり、昭和に入るや改造社の円本ブームに乗って上海一の書店に成長した。
 内山と魯迅とは1927年10月に出会っている。魯迅が広州から上海に逃れて来て間もないころ、内山書店で書籍を購入したときであったという。その後、1936年10月、魯迅の死まで2人は濃密な関係にあった。
 内山は改造社などの依頼で多くの日本人作家と文化人たちに魯迅との交流を仲立ちした。そのさい、魯迅はその交流を通して、平和の尊さを訴え、日中両国民が心底からのお付き合いができるようにと日本人に向かって発信し続けた。
 内山書店の肝いりで始められた文芸サロンでは、魯迅と上海在住の日本人とは近所づきあいともいうべき、人情味溢れる交流をしている。
 内山は上海に遊びに来ていた学生、増田渉が、魯迅に文学史上の個人教授を受けたる手助けをしたり、日本国内の弾圧を逃れた反戦活動家の鹿地亘に、魯迅と中国の小説を翻訳する仕事を按配したりした。そのため、内山は公然と上海在住の日本人たちから「国賊」と非難され、一時は帰国して避難したほどであったという。
 内山は魯迅の最晩年、隠れ家を提供し、日常生活のお世話もし続けた。
 魯迅の絶筆は内山完造あての手紙であり、そこには死の前日に予定されていた朝日新聞の特派員とのインタビューのお断りと主治医であった須藤五百三医師に往診を頼んでほしいと書かれてあった。魯迅の葬儀で、内山は宗慶齢、茅盾、毛沢東、スメドレーらとともに葬儀委員を務め、万余の参会者を前に弔辞を述べた。

 

日中友好協会の初代理事長に

 

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没後20年を記念し建てられた頌徳碑
(岡山県井原市桜橋公園)

 戦後はまず上海から引揚げる日本人のお世話をし、中華人民共和国の建国後は中国からの日本人引き揚げ事業に深く携わった。
 日中友好協会の結成(1950年)後は初代理事長として全国を行脚し、各地に日中友好協会の支部づくりのため、講演と組織活動に走り回った。
 1959年、中華人民共和国の建国10周年に、内山は中国政府の招待を受けて、夫婦づれで、6年ぶりの中国訪問中、9月20日北京で客死した。
 内山完造は魯迅の恩師であった藤野厳九郎とともに、中国で特に著名な人物といってよい。とりわけ、内山は日本人として深い愛情をもって中国を見つめ、同時に中国人に対して率直な物言いをしたことでも群を抜いているのではないか。
 私たちが見習うべき日中友好の大先輩について、もっともっと知られてよいのではないか。(協会宮城県連合会事務局長・仙台における魯迅の記録を調べる会事務局員)

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