日中友好新聞
2009年2月15日号1面
歴史の闇に光を!
重慶大爆撃の生き証人たち
フォトジャーナリスト 鈴木賢士
旧日本軍は1938年2月から1943年8月にかけて中国重慶を無差別爆撃し、多数の被害を出しました。被害者たちは06年に日本政府に謝罪と賠償を求め提訴、現在も闘っています。
昨年11月に2回にわたって重慶市を訪れ、被害者たちを取材した鈴木賢士さんに、彼らの現状や思い、東京での裁判の様子などをレポートしてもらいます。また、次回からは5回にわたって被害者たちの証言を中心に紹介します。(編集部)
重慶無差別爆撃の惨状(『重慶大
炸
集』重慶市文化局 重慶博物館 重慶紅岩革命記念館編=重慶出版社)
08年11月、上海乗り継ぎで訪れた中国西南部の重慶は、別名「霧都」の名の通り、林立する中高層ビルが深い霧につつまれていました。2年前に比べると、道路は車であふれ、街は近代的なオフィスが立ち並ぶ繁華街に変身しています。長江(揚子江)と嘉陵江にはさまれた高台の半島、ここが中国で最大の面積・人口を擁する中央政府の直轄市、重慶の中心部です。
約70年前に日本軍が5年半にわたり、この地に照準を合わせて無差別爆撃を行なったところです。
200余回の爆撃で死者2万人
長江対岸から撮った重慶市中心街の一角に林立する中高層ビル。滞在した6日間ほとんど雨と霧で、この日だけちょっぴり青空をのぞかせた。(以下、写真はすべて鈴木賢士氏提供)
中国への侵略戦争のさなか、日本軍は首都南京攻略のあと、臨時首都となった重慶にたいして1938年2月から43年8月まで、空からの爆撃を続けました。飛行機九千数百機が出動し、200回を超す爆撃で、約2万人が爆死し、10万人以上が焼け出されました。
空爆の歴史では、ピカソが画で告発したドイツのスペイン攻撃「ゲルニカ」が有名ですが、その1年後から、日本軍が長期間、戦略的に行なったのが「重慶爆撃」です。
日中戦争といえば、すぐ頭に浮かぶのは、満州事変や盧溝橋事件、さらに731部隊や南京虐殺です。日本軍が行なったもう一つの残虐行為=重慶爆撃は、ほとんど知られていないのが実情です。
一つには、戦後、日本の戦争責任を裁いた東京裁判で、アメリカが意図的にこの問題を訴因からはずしたことにあるようです。東京大空襲など一連の無差別爆撃への追及を恐れたからです。
重慶爆撃という日本の加害行為は、歴史の闇に消されてしまいました。
「一生続く体と心の傷」と訴え
06年10月25日 重慶大爆撃第1回裁判の日に、日比谷公園からデモ行進に向かう原告と弁護団、支援者たち。中央で横断幕を持つのが、爆撃で右ほほに深い傷を負った趙茂蓉さん。
しかしここ数年来、マスメディアにしばしば重慶爆撃が登場し、学者・研究者による出版も増えました。06年3月に被害者と遺族40人が、日本に謝罪と賠償を求める裁判を起こしたのがきっかけです。
「重慶大爆撃は、私に一生続く大きな体と心の傷を与えました。今でも失った左足にけいれんが起き、夜眠れないこともしばしばです」――40年6月の爆撃で左足を膝上から奪われ、杖なしでは歩けない体にされた万泰全さん(06年当時74歳)が、東京地裁で訴えました(06年10月、第1回裁判)。
「父は全身が倒壊したレンガに埋まり、母は顔が血まみれの状態で息絶えていました。母は妊娠8カ月で、胎児も日本軍の爆撃で殺されたのです」――39年3月に、両親を失って孤児になった華均さん(77歳)は、おじの家で「殴られ、いじめられた」と、涙ながらに陳述しました(08年7月、第7回裁判)。
東京大空襲訴訟の原告と交流
重慶市の中心街、
中区較場口磁器街にある「重慶大爆撃惨案遺址」。1941年6月5日、空襲警報で全長2.5キロの防空洞に逃げ込んだ市民数千人が窒息死した記念碑。下側が防空洞の出入り口。
口頭弁論はすでに8回を終え、原告は重慶に隣接する四川省の成都・楽山などからの追加提訴を加えて、107人に達しました。
つまり重慶爆撃は、遠い昔の話ではなくて、まさに日本の戦争責任が問われる、ホットな、現在の問題です。裁判を通じて、日本が過去の過ちに真剣に向き合うかどうか、注目されます。
毎回、裁判の傍聴席はほとんど満席で、そこに多くの東京大空襲訴訟の原告が駆けつけているのが印象的です。重慶と東京、加害と被害の二つの歴史的裁判が、中国・日本の原告同士が交流しあい、励ましあって進行しているのです。
次号からは、重慶大爆撃の生き証人を、生々しい写真と証言でお伝えします。