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日中友好新聞

2008年12月15日号1面
中国初の「沙飛」シンポジウム
日本での写真展を紹介
協会代表し来住新平さんが出席

 従軍写真家・沙飛をテーマにした中国初のシンポジウムが11月14日から16日まで河北省石家荘市で開かれ、協会代表として招待された来住新平・協会都城支部長が日本での「沙飛写真展」の活動を紹介しました。

 

写真河北省石家荘市で開かれた「沙飛」シンポジウム

 このシンポジウムは、「戦争・苦難・知識人と視覚の記憶」と題し、沙飛の出身地である広東省の中山大学・沙飛研究センターと広東美術館が主催したもの。
 協会組織が中心となり、今年4月に東京、九州で開催した「沙飛写真展」の成果が中国で大きな注目を集めるなか、中国側からの要望に応じ、協会代表の派遣に至りました。
 シンポジウムの出席者は、中山大学など各大学、中国社会科学院、中国人民抗日戦争記念館などの研究者、広東美術館長、陜西撮影家協会、新華社撮影部、中山大学の学生を含む38人。
 中山大学の楊小彦教授の主催者あいさつ、河北省民生局長のあいさつに続き、来住さんが特別報告を行いました。

 

人道的友好の未来を創出

 

写真
シンポジウムで発言する来住新平さん(右)

 来住さんは、抗日戦争期の1940年に、八路軍の聶栄臻(じょうえいしん)将軍と戦場で救出された日本人少女の栫美穂子さん(宮崎県都城市在住)の写真を沙飛が撮影したことがきっかけで、都城と中国との交流が大きく発展していること、沙飛が命がけで撮影した貴重な作品を日本に紹介し、精神を病んだ晩年の沙飛に射殺された日本人医師・津沢勝さんの遺族と沙飛の遺族との交友をはかるため、日本での写真展開催を企画した経緯を紹介。
 4月の東京での開幕から、全国13カ所の展示で約9500人が鑑賞し、参観者からは歴史の事実を知った驚きや、それを記録したカメラマン沙飛への感謝、日中友好の思いの高まりなど絶賛の声が寄せられたことを説明。「日中友好の新たな歴史を開く写真展となった」と述べました。
 そして、中国建国60周年を迎える09年には、協会が全国各地でさらに大きな取り組みを展開するとともに、聶栄臻将軍の出身地である重慶市江津区で11月に「聶元帥と沙飛」シンポジウムが予定されていること、地元の都城BTVケーブルテレビでも、沙飛のドキュメンタリー番組が準備されていることを紹介しました。
 シンポジウムの参加者からは、日本の「沙飛写真展」開催への感動と喜びの声があとを絶たず、沙飛のかつての弟子で、現在唯一の生存者である顧棣さん(80歳)は、「来住さんにお会いできてとても嬉しい。もし沙飛が生きていれば」と声を詰まらせました。

 

知識人としてのあり方論じる

 

写真「沙飛記念館」には、日本での沙飛写真展を報じた日中友好新聞や宮崎日日新聞と朝日新聞、協会制作のパンフレットが展示されている

 シンポジウムでは、顧棣さんが、自身の沙飛との出会いや、ネガ、写真の整理、保存の重要性について報告。他に4人が沙飛の写真の評価などについて分析的に発言。
 また、戦争の苦難の中で、写真家・沙飛をはじめとする知識人たちはどう生きてきたか、また現代の知識人はどう生きるべきかなど、多様な視点から報告と討論が行われました。
 来住さんは、シンポジウムに出席した印象を次のように語りました。
 「全国から参加した一流の研究者、写真家、評論家らが『自由闊達(かったつ)』に討論する場に、協会代表として招待されたことは、日中友好運動への確信と、協会員としての誇りを強くした。
 一方、抗日戦争勝利に果たした沙飛の役割や、沙飛のヒューマンなカメラアイ、『栫さん救出』写真などで開かれた友好運動への発言は少なく、中国でも研究は始まったばかりと感じる。今後は日本での研究を深めると同時に、(沙飛が活躍した)晋察冀(しんさつき)辺区の日中共同調査、シンポジウムなどを検討すべきだと思った」
 参加者一同は16日に双風山陵園沙飛記念館を見学。沙飛の銅像の前で記念撮影し、全日程を終えました。

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