日中友好新聞
2008年10月5日号1面
政府は謝罪の証を
中国人大虐殺 平頂山事件
生存者 王質梅さん来日
シンポジウム前日に協会本部事務所を訪れた王質梅さん
1932年に日本軍が旧「満州」の平頂山(遼寧省撫順郊外)で行なった大虐殺事件から76年。9月13日東京でシンポジウムが開催され、生存者の1人である王質梅さん(女性、87)が初めて来日。王さんにその体験と思いを聞きました。
一面が血の海、火の海に
「今でもあの時のことは鮮明に覚えています。時おり思い出すと、夜眠れなくなります」
王さんは事件当時10歳。父、母と2人の弟の5人家族でしたが、弟が病気で亡くなり、父も失業したため、苦しい生活でした。
1932年9月16日の朝、多数の日本兵がトラックに乗ってやってきて、「外へ出ろ」と銃剣で脅され、一家は村のはずれの平地に追い立てられました。
「そこにはたくさん人がいた。黒い布を被せられたものがあった。黒い布が取られ、機関銃が現れ、掃射が始まった。山に登って逃げようとする人がいたが、撃たれた人がボールのように落ちてくる。父が伏せろといったので伏せた」
「今度は一発ずつの銃声が聞こえ、1人ずつ殺しているのではと思った。軍靴の音が近づいてきて、足を踏まれ、背中を銃剣で刺された。すごく痛かったが耐えた。今でもその傷が残っている」
「やがて静かになって起き出したら、あたりは血の海、火の海だった。日本軍は行ってしまったと思い、父、母の名前を呼んで探したが、見つからない」。
凄惨な虐殺の光景を思い起こすたびに、王さんは涙を流し、言葉につまります。
「足もとで死んでいる人たちにつまずき、何度も転びながらその場を離れた」
王さんは、たどり着いた民家にかくまってもらい、のちに叔母の家に引き取られ、長春に移り住みました。
事件後、日本軍が平頂山事件の生存者を探していたので、姓を「王」に変え、事件のことは誰にも話しませんでした。貧しい叔母の家計を助けるため、15歳から長春にあった日本の「丸善」で働き、日本の敗戦後は電気工場で定年まで働きました。
互いに歴史知り、仲良く
王さんが再び平頂山を訪れたのは2000年以降。いま虐殺現場に建っている「殉難同胞遺骨館」で母娘の遺骨を目にすると、「自分の母親と思ってしまい、泣いてしまう」と話します。
平頂山事件は1937年の「南京事件」に先立つ大虐殺事件にもかかわらず、戦後長い期間報道されず、日本の歴史教科書などでも紹介されていません。
1996年に3人の生存者が原告となり日本政府を訴えた「平頂山事件訴訟」で、裁判所はその事実をようやく認めましたが、政府の責任は問わないまま、請求を退けました。日本政府は現在も平頂山事件の事実を否認する態度を変えていません。
「政府に何を求めますか」。王さんは「虐殺の事実を認め、謝罪してほしい。そして、被害者の心を慰める『証』を行動で示してほしい」と答えました。
「日本国民に伝えたいことは」の質問に王さんは物静かだがまっすぐな視線、はっきりとした口調で、次のように述べました。
「家族と3000人の同胞を殺され、小さい頃から日本人を恨んでいた。しかし、のちに日本人と一緒に仕事して、日本人にも優しい人がいること、日本軍と日本人は違うということが分かった。戦争は侵略と殺人が目的であり、何ひとつ良いことはない。いま、中国と日本は首脳が相互訪問するほどに友好関係が深まっているが、日本はもちろん中国の若い世代も平頂山事件を知らない。両国の青年は、お互いに過去の歴史を知り、そして仲良くしてほしい」(Z)