日中友好新聞
2008年9月25日号1面
「メイファーズ」が漫画の原点
漫画家 赤塚不二夫と中国体験
石子 順
ありがとう、赤塚不二夫
おそ松、バカボン、ア太郎たちとともに「コレデイイノダ」という言葉を日本中に広げたギャグ漫画家赤塚不二夫が8月2日に亡くなった。
葬儀でタモリが「私もまた赤塚不二夫の作品なのです。ありがとうございました」と礼を述べた。ファンみんなの思いもギャグで笑いをありがとう、だったのではないだろうか。
赤塚不二夫とは30年以上のつき合いだった。引揚げ同士ということだけでなく、二つの国民学校ですれ違っているので親近感があった。赤塚不二夫といると、兄弟?とよく聞かれた。森田拳次たちのまんしゅう地蔵建立漫画展で「赤塚さん、サイン下さい」と声をかけられたこともある。
亡くなった時のスポーツ各紙は一斉に赤塚がバカボンのパパに扮(ふん)した写真を大きくのせた。ギャグスター扱いにこれでいいのかと思った。赤塚不二夫はギャグ漫画の天才でお笑いの達人で酒飲みだったが、まじめで反骨精神があってきちんとした発言をしている。子ども向けの漫画日本国憲法も描いている。ギャグ漫画の根っ子には中国からの引揚げ体験が脈打っているのだ。
その中国体験、戦争と引揚げ
1995年、戦後50年を迎えて、中国から引揚げてきて漫画家になった上田トシコ、赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次、高井研一郎、北見けんいちたちが集まった。私の司会で引揚げ体験が初めて語られた。こういう時の赤塚不二夫はまじめな話をする。
「中国人は大きいと思うの。戦争で日本人にさんざんいじめられたのに、いじめたほうを助ける民族がどこにいます。残留孤児も含めて面倒をみて育ててくれた。これはすごいと思わないか」
赤塚不二夫は1935年9月14日に万里の長城近くの古北口で生まれた。父は特務警官で熱河省の承徳から辺境を転々とし、危険なので大連の親戚に預けられたこともある。国民学校は4年生までに13回くらい転校した。
それでも「自分の故郷だと思うんだよね。満州へ行くと、いまで言えば中国だね、あそこへ行くと『帰ってきたぞ』という気がする」
敗戦は奉天(瀋陽)の鉄西区で迎えた。父は鉄西の消防署署長になっていてシベリアに送られた。母と4人の子どもは46年6月に引揚げてきた。母の実家について30分後に末の妹がフゥーって息をついて死んだ。母の苦労を思うと「あ、かあちゃん孝行したな」って小学5年生の赤塚不二夫は思った。
「あいつは可愛いとき死んでよかったよ」―いつか赤塚不二夫と飲んだ時にしみじみこぼしたことばだ。戦後もずっと妹のことを思いつづけていたその胸の内を知って熱くなった。
赤塚漫画、おそ松たちを中国に
赤塚不二夫は、中国人がよく言っていたことば「メイファーズ」が気になる。漢字で没法子、しょうがない、仕方がない、長いものには巻かれろといった意味だ。
「おれたち中国育ちは少しずつでもそれを持っているのではないか」と問いかける。自分の「戦後の生き方は、やっぱり『メイファーズ』だよね」どうでもいいよ、でもあきらめないって生きてきた。中国体験の原点は「メイファーズ」にある。そしてこれが転じて、「これでいいのだ」になっていった。
赤塚不二夫は、チャップリン、キートンのドタバタ喜劇映画の動き、キャラクター、追っかけの笑いころげるおかしさを子ども漫画にはじめて取り入れた。それもメイファーズ的に日常からはみ出し、はねのける精神につながっている。
手塚治虫に影響されながら、その世界とは違う笑いの漫画を生み出したところが赤塚不二夫のすごさなのだ。チャップリンの母と子の涙も笑いもあるような漫画をなお描きたいと言っていた。新作が見たかった。そして思う。赤塚ギャグ漫画を中国の子どもたちに見せたい。おそ松たちは“笑いの外交官”になるのでは。(漫画評論家)