日中友好新聞
2008年5月25日号1面
中国剪紙もとに独自の美を創造
きりえの芸術性と魅力
40回を迎えた全国コンクール
前田 尋
第40回きりえコンクールの審査風景
第40回全国きりえコンクールが4月19日、東京で行われました。きりえ委員会委員長の前田尋さん(協会常任理事)に、きりえの芸術性と魅力、協会のきりえの歴史について執筆してもらいました。(編集部)
日中友好協会主宰の全国きりえコンクールが40回を迎えました。これほどにも長く続くことが考えられたでしょうか。しかし、それほどにきりえの魅力は尽きず多くの愛好者を広め、創作の輪を拡大し続けたゆえんと言うこともできるでしょう。
「黒の美しさ」主に彩色した絵画
日本におけるきりえの初きりが、中国剪紙(せんし)の模写から始まったとはいえ、それが創作として、絵画性の追求に向かったことで、今日のきりえの発展の姿を私たちは見ることができるのです。
民芸、また工芸的な剪紙の美しさ、精緻な技術、それをそのままに、日本の作品として創造しようとしても、おそらく継続するものとはならなかったでしょう。
中国でも近年、剪紙作者の中に創作的・絵画的作品を作る人びとが出てきています。
紙を切って描く絵画としての新しさ、新鮮さは、創造的な未開の表現方法として、作り手にも鑑賞者にも受け入れられました。鋭く明快な形象、白と黒の目に鮮やかな図像、またそこに染和紙や水彩絵の具で彩色した絵画は、独自の美を生み出したのです。墨絵や浮世絵のように黒を基調とした表現は、日本独特のものとして、これまで伝えられてきましたが、新たに「黒の美しさ」を主調とする絵画はより鮮やかなものとして人びとの関心を集めました。
ナイフが描く鮮やかな形象
木版画も刃で彫るとはいえ、次に刷るという工程が入ることで、エッジに丸みを帯びてしまうのですが、直截的なきりえは、ナイフの鋭さがそのままに、現代にふさわしい明解さで主張するのです。
切る立場から言えば、明解すぎるほどのカッティングは逆に難しさとも言えるのですが、児童のきりえなどにも見えるように、際立つナイフの跡は、曖昧さを許さない形象を突きつけるのです。
切り出して黒い紙の中に点々とまた自在に描線が光を帯びて、浮き上がってくる時の美しさ。この描き方は、いつまでも新しいといえるのではないでしょうか。
幅広い普及と協会の役割
日中友好協会は戦後、中国事情紹介の一つとして民間に広く伝承されていた中国剪紙(きりがみ)の普及を始め、1958年4月に「中国の剪紙」という剪紙の作り方をも紹介するパンフレットを作りました。66年には「憲花」という機関紙も発行されます。
しかし同年、中国で始まった文化大革命によって、交流にも支障をきたすようになります。それでも講習会は各地に広がり、愛好者も増えました。67年には、日中友好新聞紙上でコンクールが実施され、読者の人気投票制で、4回まで行われました。
専門美術家も協力
70年2月の第4回展になって本格的な審査員制度が話題になり、内部の審査制により第5回を開催。第6回(74年3月)では専門美術家として、画家の吉井忠、久米宏一両氏を迎えました。
この回初めて、出品作が100点を超え、大人の部とジュニアの部に分けました。
同年「日本きりがみ研究会」を発足させ、翌75年には、日中友好協会の全国組織が中心となり、最初の巡回展を20府県31カ所で開催し、6万3000人が鑑賞。各地で初級講師養成講座も開かれ、今日の指導者へとつながっていきます。
一方、75年9月には東京で第1回全国きりえ・きりがみ交流会が開かれ、経験交流が定期的にもたれることになりました。
版画家の上野誠氏や童画家の安和子、洋画の箕田源二郎、永井潔、日本画の宮本和郎氏ら、きりえ画家の金子静枝、滝平二郎、加藤義明、武田祈氏など、それぞれ創作的な作家によるコンクール審査は、きりえの絵画性の追求に大きく寄与しました。
その後、78年には日中友好協会会員や作家を集めた日本きりえ協会の結成に至ります。
この40年間に誕生した多くの秀作は、80年に最初の画集「きりえのあゆみ」と以後3冊の「きりえ撰集」に見ることができます。また、昨年初めて、中国の剪紙展に2人のきりえ委員が参加し、きりえと剪紙の交流が始まろうとしています。
日本独自のきりえ美術が、日中友好に貢献し、さらに世界中にきりえ創作の輪が広がっていくことでしょう。