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日中友好新聞

2007年12月5日号1面

新しい人道的友好を開く
抗日戦争を撮った「沙飛」の写真展
08年春に開催を決定

 

写真日本軍捕虜に「寛大政策」を語る八路軍幹部(1940年)「沙飛撮影全集」より

 日本中国友好協会は、中国の報道写真の先駆者として知られる沙飛の写真展を08年春に東京、九州などで開催することを決定。中国の抗日戦争を中国側の視点から撮影した沙飛の写真と、写真展の取り組みを紹介します。

「魯迅の啓発を受けて抗日戦へ

 沙飛は1912年広州生まれ。14歳で国民革命軍の北伐(軍閥打倒、全国統一を目標にした各地軍閥との戦争)に参加したのち写真撮影を学び、1936年に上海美術学校に入学。この時期に文豪・魯迅と知り合い、思想的な啓発を受け、魯迅の晩年や臨終の姿などを撮影します。
 1937年7月の「盧溝橋事件」をきっかけに日本軍が中国全土に侵略戦争を拡大すると、沙飛は日中戦争の前線に駆けつけ、やがて晋察冀(しんさっき)(山西・チャハル・河北地域)軍区司令官の聶栄臻(じょうえいしん)将軍のもとで、抗日戦争に従軍します。
 このなかで沙飛は9年にわたり、1000枚を超える抗日戦争の写真を撮影。画報や雑誌で発表し、宣伝活動を通して抗日戦争を支えました。

人道主義と国際主義を写真に

 1940年に沙飛は、河北省での日本軍との激しい戦闘のなか、八路軍兵士により救出された栫(かこい)美穂子さん(宮崎県都城市在住、協会会員)と聶栄臻将軍の写真を撮影。のちにこの写真がきっかけとなり、1980年に2人の再会が実現。この人道的エピソードを縁に、協会都城支部と行政、市民が一体となった中国との交流が大きく発展しています。
 また、八路軍の人道的な待遇を受ける日本人捕虜、在華日本人反戦同盟(侵略戦争に反対し中国国内で活動した元日本兵の活動者たち)などの写真を残しており、敵である日本軍兵士も「軍国主義からの解放」の対象としたといわれる当時の八路軍の方針を伝えています。
 こうした国際的視点に立った写真のほか、抗日戦を支持する民衆の生きいきとした暮らしや文化なども多数撮影されており、沙飛の写真は「抗日戦争」の歴史と事実を考えるうえで貴重な資料とされています。

日本人医師の顕彰を
白求恩病院から津沢医師に「栄誉証書」

 不眠不休の抗日戦争で心身ともに侵された沙飛は新中国建国直後の1949年12月、入院していた白求恩(ベチューン)国際平和病院で、主治医の日本人医師・津沢勝氏を殺害。その罪で1950年に処刑されます(当時38歳)。津沢勝氏は、日本の敗戦後に八路軍に参加し、医療活動で新中国の建設に協力した国際友人の一人でした。
 1986年の再審で当時の精神異常が立証され、沙飛は名誉回復されますが、中国の医療に貢献した津沢氏の顕彰はなされないままでした。
 05年、協会都城支部の来住新平支部長が沙飛の遺族、王雁女史と面会。王雁さんらが津沢氏の遺族との和解と交友を希望していることを知った来住支部長は、津沢医師の長女、池谷田鶴子さんと交流を深める一方、津沢医師の中国での顕彰について白求恩国際平和病院、中日関係史学会などに働きかけました。
 日中友好協会本部も中日友好協会、中国大使館などに協力を要請し、これを支援しました。
 今年4月、池谷さんが王毅駐日大使(当時)に津沢医師に関する資料を渡したことが決め手となり、白求恩国際平和病院から津沢医師への「栄誉証書」が6月に贈られ、病院内での津沢医師の写真掲示が実現。池谷さんは「父の名誉回復ができたことで安堵している。さまざまな事情があって(顕彰が)遅れてしまったが、今後の日中友好活動に良い影響をもたらすのでは」と語っています。

現代の「人道的友好運動」に

 この取り組みと平行して、都城支部は「聶元帥と沙飛写真展」を企画。津沢医師の出身地である熊本や、隣の鹿児島でも写真展が企画されました。
  日本中国友好協会はこの企画を、日中両国民衆の連帯と友好のあり方を考え、沙飛と津沢医師の両遺族の交流実現をめざす人道的友好運動と位置づけ、08年4月に東京での写真展開催を決定。東京、九州以外に大阪などの協会組織でも開催が検討されており、日本初の本格的な沙飛の写真展を通じて、「日中不再戦」を掲げる協会の友好運動を国民に大きく広げる取り組みが始まっています。

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