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日中友好新聞

2007年7月25日号1面

平和と反戦の願い音色に込めて
〜トランペット奏者松平晃さんに聞く〜

 年間200回を超える演奏に精力的に取り組むトランペット奏者の松平晃さん(65歳)。町内会の行事や学校の文化祭、平和民主団体の集会など、声がかかればどこへでも出かけます。
 6月末、中国「残留」孤児訴訟の座り込み行動のオープニングセレモニーにも駆けつけ、「北国の春」や「ふるさと」を演奏。参加者を勇気づけました。トランペットにかける思いを聞きました。

 悪友の影響を受けて


  「出会いは中学3年の6月。簡単そうに悪友が吹くので、自分もできるだろうと思って吹いてみたらこれが全然鳴らない。しゃくにさわりましたね。それからトランペットにのめり込みました」と当時を振り返ります。
 15歳でNEC(日本電気株式会社)に入社。材料分析の仕事に従事しました。「毎日理科の実験みたいでした」と、少年のように笑います。
 当時、社内にあった吹奏楽団に入団。中学卒業後、2カ月ぶりにトランペットを手にして「もつべきものが手に入った」と、実感したそうです。警視庁音楽隊の隊員に、週2日の指導を受け練習。初舞台は会社の運動会。「荒城の月」を演奏しました。「中卒の僕がソロパートを任されて緊張しましたね。警視庁音楽隊の指揮者が来ていて『なかなか良い音で吹いていた』とほめられ、ホッとしましたよ」
 一方、職場で学歴による差別を経験。「トランペットなら自分の実力で…」と、プロになる夢も抱きました。
 18歳で銀座の一流キャバレーで演奏したことも。「音楽のつもりで吹いても所詮(しょせん)、酔客に思いは届かない。これでいいのか…」と悩む日々が続きます。「働きながらにこだわる演奏は、ここが出発点」。以来、“労働者トランペッター”が肩書きになりました。
 20代から、いろいろな演奏依頼が来るようになり、活動の場が広がっていきます。

  国際高齢者文化祭で中国へ

 1966年6月、24歳で結婚。「友人たちの計らいで北京放送局から結婚の祝辞が流れたときは感動しました」と、松平さんは懐かしそうに語ります。
 夫婦で初めて中国を旅した92年、北京市の天安門広場を訪れ89年に起こった天安門事件の傷跡にふれます。「中国は、一言で表せない奥深さがあるのが実感です」
 45年間の会社勤めの後、高齢者の国際交流や連帯をめざす運動に共鳴。04年、北京で開催された国際高齢者文化祭へ参加。「北国の春」、「草原情歌」などを演奏し中国、韓国、モンゴルなどアジアの人びとと交流します。
 この文化祭を通して、各国の高齢者団体が創り上げる意識の確かさ、出演者のレベルの高さに圧倒されたといいます。
 その後05年シンガポール、06年モンゴルでの文化祭にも参加。今年は10月19〜20日の2日間、中国山東省青島で開かれる予定。「今からとても楽しみ」と、語る松平さんはアジアのアーチストとの文化交流にも意欲的です。

 戦争の先陣切った 「進軍ラッパ」

 トランペットと同義語の“ラッパ”は、日清・日露戦争の時代から、兵士の一挙手一投足を決定する、戦争と軍隊に欠かせない「楽器」でした。
 日清戦争で戦死した歩兵第21連隊の木口小平喇叭卒は、「死んでもラッパを放さなかった」という美談で語り継がれ、『露営の歌』(1937年)には「進軍ラッパ 聴くたびに まぶたに浮かぶ 旗の波」と歌われるなど、兵士を戦争へと駆り立てる象徴として、人びとの記憶に刻まれています。
 松平さんはいいます。「本来、トランペットは明るく華やかさが身上。音色を通してどこの国の人ともコミュニケーションをはかれるものです。戦争を謳(うた)う“進軍ラッパ”ではなく、平和と友好の象徴としての役割を果たしていきたい」
 松平さんは持ってきたトランペットに目を落とすと、愛しそうに見つめました。
(O)


松平 晃(まつだいら あきら)
 1942年、東京・品川区生まれ。川崎市在住。
 トランペット片手に日本全国、ニューヨーク、スイス、パリなどを吹き歩く。
 2002年、NECを退職し“会社員トランペッター”から“専業・社会派トランペッター”となる。
 NHKラジオのトーク番組に数回登場。
 2006年は演奏50周年にあたり、リサイタルの開催記念CD『Trp BEST』を音楽センターよりリリース。
 阪神大震災の追悼演奏は、テレビ・新聞でも大きく報道をされている。
日々の様子はブログで紹介。
http://blogs.yahoo.co.jp/akira326ok



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