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日中友好新聞

2007年1月5日 新年号1面
(新春特別インタビュー 次世代へのメッセージ)

「歴史」しっかり学び
将来の友好の担い手に

元女優・山口淑子さんに聞く
(一部掲載)

 

 戦前、映画スター「李香蘭」の名で一世を風靡し、戦後はテレビキャスターや国会議員として多方面で活躍した山口淑子さん。第一線を引いた現在も国内外の諸問題に深い関心を寄せています。旧「満州」生まれで日中戦争を体験したことから、日本と中国の友好について力強い語り口でインタビューに応じ、次世代を担う若者に熱いメッセージを送ってくれました。

日本憲兵の暴行を目撃

 山口さんは、世界有数の露天掘り炭鉱で知られる撫順(遼寧省)で生まれました。父は佐賀出身で「満鉄」(南満州鉄道株式会社)の中国語の教師、母は福岡出身で日本女子大卒。山口さんが幼年期を過ごした時代は、柳条湖事件(満州事変)が勃発し、傀儡((かいらい)「満州国」が建国された時期でした。
 1932年9月15日、夜中の騒々しい物音で目を覚ますと、撫順の空半分を赤く染めるほどの大火事。明け方、苦(クー)力(リー)頭(かしら)と思われる1人の中国人が目隠しをさせられ、木に縛られて憲兵の詰問を受けていました。中国人は頑として口を割らず、鉄砲の台尻で頭を殴られ血を噴出して死にました。当時12歳の山口さんは、恐ろしくて泣き出したといいます。「戦争はいやだ」という強い気持ちを植えつけた最初の体験でした。
 それと同じ時に起きたのが、住民3000人が日本軍に殺害された「平頂山事件」(注1)です。後に参議院議員時代に撫順を訪れた山口さんは「平頂山殉難同胞遺骨館」で、事件で殺された人びとの累々たる遺骨を目の当たりにします。
 「断末魔の人間の悲惨さを見る思いで、胸がふさがりました」。
 このとき初めて、あの夜の火事、苦力への詰問と同じ時に平頂山で起きていた事件を知り、「戦争の残忍さに心が凍る思いでした」と話します。

(※全文は「日中友好新聞」1月5日号の紙面をご覧下さい)



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