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HOME > 日中友好新聞 > 2016年10月25日号

日中友好新聞

忘れない“敵国の子ども育てた養父母の恩”
東京「中国残留孤児問題フォーラム」に650人


 

shinbun

中島幼八さんによる基調報告



 日本の中国侵略戦争によって、中国東北地方(旧「満州」)に送り込まれた「満蒙開拓団」。敗戦時のソ連の侵攻のさい、置き去りにされた「中国残留孤児」は4000人(中国側発表・厚生労働省発表は2818人)といわれています。
 戦後71年を経て、帰国した残留孤児の有志が呼びかけ、10月2日東京都江戸東京博物館で「中国残留孤児問題フォーラム=敵国の子どもを育てた中国人養父母」が開かれ第2会場を含め午前午後で延べ650人が参加し熱気に包まれました。
 主催は呼びかけ人。日中友好協会など11団体が後援しました。



体験談に参加者が涙

 帰国者2世の藤原知秋さんが司会、呼びかけ人の池田澄江さん(元孤児、NPO中国帰国者・日中友好の会理事長)が「中国の養父母の存在なくして今の私たちはなかった」と主催者あいさつ。
 同じく呼びかけ人の中島幼八さん(元孤児・体験記『この生あるは』の著者)が基調報告、「わが子のように慈(いつく)しみ育ててくれた養母、それを助けた3人の養父によって何度命を救われたことか」と沈痛な面持ちで涙ぐみながら話すと、多くの参加者が目頭を押さえていました。
 中島さんは、残留孤児をつくり出した侵略戦争の背景と実態、とりわけ中国の「文革期」に養父母が「なぜ日本鬼子の子を」と周囲から白い目で見られながらも人間性豊かな精神と、憎しみを越えた寛大な心で育て上げてくれた事実をリアルに紹介し、これらの光の当たらぬ人びとを「歴史の舞台に押し上げよう」と、呼びかけると聴衆は鳴り止まぬ拍手で応えました。
 中島さんは最後に、「安倍首相が戦後70周年談話で養父母への感謝を述べたが、その証しとして日本に『養父母顕彰碑の建立』を実現して欲しい」と結びました。




討論で4氏が問題提起



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パネルディスカッションで4氏が発言
(左から大久保明男、安原幸彦、羽田澄子、寺沢秀文、白西紳一郎の各氏)



 続くパネルディスカッションは、首都大学東京の大久保明男教授(帰国者2世)がコーディネーターを務め、4氏が問題提起。
 NPO日中協会の白西紳一郎理事長は、「広島に生まれ被爆を体験したが、宇品港は日清戦争に始まる中国侵略の基地であり残留孤児を生んだ戦争の原点でもある」。
 満蒙開拓平和記念館の寺沢秀文専務理事は、「満蒙開拓の目的は、日本の人減らしと、ロシアとの戦争の防波堤のためであった。開拓記念館は、『あの戦争における貧しい庶民の悲惨な歴史と生き様を後世に伝える』ために作られたもの」。
 映画監督・羽田澄子さんは、「当時、大連にいたが、残留孤児など満州奥地での日本人の悲劇は知らされなかった。残留孤児訴訟を知って、この事実に目をつぶってはいけないと『嗚呼(ああ)満蒙開拓団』の映画を作った」。
 中国「残留孤児」国家賠償訴訟団の安原幸彦幹事長は、「訴訟はほとんど敗訴だったが、国民世論に訴え『帰国者支援法・配偶者支援法』を成立させた。政府の施策によって『生きながら3度も殺された』残留孤児の人間の尊厳を同じ日本人として擁護していく責任がある」と報告しました。
 討論の後、大久保氏が「残留孤児問題を通して、日本の中国での戦争の本質や実態の一端が解明された。これは過去の問題でなく、現在にも通ずる課題でもある。開拓団、残留孤児の犠牲と体験を風化させることなく私たちが引き継ぎ、アジアの平和と日中友好に生かしていこう」と、まとめました。



中国公使があいさつ



 フォーラムに先立ち、映画「望郷の鐘」を上映、剣中国大使館公使参事官が来賓あいさつ、「大地の子」に出演した仲代達矢氏からメッセージが寄せられました。またNPO中国帰国者・日中友好の会が舞踊「中国の (お母さん)」などを演じました。

(N・O)






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