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日中友好新聞

2013年3月5日号1面
いまだに“戦前の洗脳”から覚めない人間がいる!
「いつか来た道」繰り返すな
オウムと闘った竹内精一さんに聞く

 オウム真理教が上九一色村に進出した1989年2月から6年間を敢然と闘った竹内精一さん(84歳・旧上九一色村)をご記憶の方も多いだろう。竹内さんは、満蒙開拓青年義勇軍で渡満、ソ連軍との戦闘、シベリア抑留を体験し辛くも命を取りとめた。
 昨年、日中友好協会山梨支部長代行になり、再登場した安倍首相の「憲法9条改悪」の野望に対して、「日本が再び戦争の道に進むことは絶対に阻止しなければ」と、静かな口調ながら「一歩も引かない」気迫で語ってくれた。

 

14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」へ

 

写真1

竹内精一さん(甲府市内で)

 富士山のすそ野の上九一色村で生まれた竹内さんは14歳で「満蒙開拓青年義勇軍」に応募した。「将来は軍人になろう」と決意していたガリガリの軍国少年だった。村や県を挙げての壮行会で送られ、内原義勇軍訓練所(茨城県)に入所、3カ月の訓練の後、「満州国」北安省満鉄二井義勇隊訓練所に配属された。
 しかし、現地で中国人が日本の憲兵隊に虐待されるのを見て「王道楽土・五族協和とは名のみではないか」と疑問をもった。

 

「人間爆弾」でソ連軍に立ち向かう

 

 1945年8月6日ころから、南に向かう列車は超満員なので不安に思っていた。後で分ったことだが、ソ連参戦の情報で、最初に関東軍の家族、満鉄関係者がいち早く逃げたのであった。国や関東軍が国民を見捨てたのだった。奥地の開拓団、義勇軍が置き去りにされ、多くの残留婦人・孤児を生んだ。
 8月9日、満17歳になった竹内さんに突然「北安集合」の現地召集が来た。貨物列車で国境第一線陣地・孫呉に向かった。途中ソ連機の空襲を受け機関車がやられ、二昼夜歩いて孫吾の部隊にたどりついた。しかし一日も経たないうちに、ソ連戦車百数十台と万を超すソ連軍に取り囲まれた。
 武器は手榴弾2発と竹やり。対抗手段は人間を使っての奇襲作戦だけだった。ダイナマイト20〜30本を詰めた急造爆弾を体に巻きつけ戦車の下にもぐる「人間爆弾」で対抗したが、死者が増すばかり。すでに日本は降伏していたが、8月19日の朝まで戦闘は続いた。
 幸いにして命を取りとめ、シベリアに4年間抑留された。そこで、「自分たちが侵略戦争の手先になった」「戦争に反対した人たちがいた」ことを知り、人生観が変わった。

 

苦難の開拓地にオウムが

 

写真2 日本中国友好協会

内原訓練所山梨44中隊第3小隊日輪兵舎
前渡満記念(鈴木正樹会員提供)
1943年(昭和18年)6月17日

 1949年、上九一色村に戻った。ナホトカから引揚船明友丸に乗り、舞鶴港で故国の土を踏んだ。当時、故郷は荒野のままで電気も水も道路もなかった。開拓地を懸命に切り開き、苦難の年月を経て1955年(昭和30年)ころになってやっと酪農と野菜生産を中心にした一大畜産団地に生まれ変わることができた。
 1989年、そこへ「オウム」が進出して来た。竹内さんはすでに61歳だったが、命がけでこの「反社会的集団」と闘った。麻原とも直接に対決した。
 この集団は、教組の指示があれば、殺人も平気でやるよう洗脳されており、かつての「天皇のためなら平気で死ねる」という自分を見ているようであった。このオウムとの闘いを「人間の尊厳を守る」という一念で闘い抜いた。戦後60年余が経ち竹内さんらが焼き払った街・孫呉から帰国した残留孤児の女性(当時2歳)と家族が山梨にいることを知り、「日中不再戦」の想いをいっそう強くした。

 

オウムを超える怖ろしい“戦前の洗脳”

 

 竹内さんは述懐する。「オウムの洗脳はなかなか覚めない。しかしもっと大変なのは、戦後68年も経つのに“戦前の洗脳”から覚めない人間が国会に多数いる。アジアで2000万、日本人も310万人犠牲になったあの戦争を反省できない。間違った戦争であったと言えない勢力がいることは大変なことだ」と、安倍首相はじめ「戦争を知らない政治家」に警告を発する。
 竹内さんは抑留中、日本が捕虜に関する国際法を無視、または無知だったことを知ったと語る。
 そして、若い世代に呼びかける。「日本の近代教育は歴史を教えていない。外国を侵略した日本の近代史をよく勉強して欲しい。再び愚かな戦争への道を歩まないために」と、語気を強めた。緊張の取材が終わり、胸が熱くなるのを覚えた。(宣)

 

 竹内精一さんプロフィール
 1928年、山梨県富士河口湖町上九一色精進(旧上九一色村)に生まれる。小学校は富士吉田小入学、鳴沢村小卒業。14歳で「満蒙青少年義勇軍」に入隊、旧満州国・北安省二井、現地召集、敗戦でシベリア抑留(4年間)。1949年引き揚げ、故郷で富士豊茂開拓地に入植。電灯導入、学校建設など開拓民の命と権利を守って活躍、富士豊茂農協組合長、県開拓農協連合会長、県酪農協同組合会長など歴任。旧村時代に富士ケ嶺オウム対策副委員長、共産党村議二期。
 著書『オウム2000日戦争 富士山麓の戦い』(1995年)、体験記「過去から脱却して」(古田足日他編『私たちのアジア・太平洋戦争@』童心社・2004年)。現在、日中友好協会山梨支部長代行。夫婦と息子さんで酪農業経営。

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