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日中友好新聞

2011年2月25日号1面
孫文の革命事業に殉じた日本人く
山田良政 最期は広東省恵州

 孫文の革命事業に貢献した日本人は少なくない。梅屋庄吉(1月15日号)や宮崎滔天(1871-1922年)らと並んで、山田良政の名がある。山田は「革命に倒れた唯一の日本人」といわれる。東京台東区の谷中墓地には、孫文が建てた「記念碑」(注@)がある。
 「辛亥革命100周年特集・第2弾」として、山田の足跡を追ってみた。

 

中国語習得、有数の中国通

 

写真1 愛知大学東亜同文書院大学センター

山田良政
提供:愛知大学東亜同文書院
大学記念センター

 良政は1868年(明治元年)青森県弘前市に生まれた。青森師範学校を経て、同郷の言論人・陸羯南を頼り上京した。
 陸から「日本として、いま大切なのは清国の研究である」と諭され、中国語を学び、民間会社の上海支店に勤務した。
 1894年(明治27年)8月、日清戦争が始まり、良政は陸軍通訳官として従軍、すでに中国語は完璧で、有数の中国通となっていた。
 戦争が終わり、良政は北京に出た。そこで清朝の圧政に苦しむ民衆の姿を目の当たりにし、清朝政府の改革派(注A)と親しくなった。
 1898年(明治31年)清朝政府保守派は、改革派を武力弾圧(戊戉の変)し、良政は戒厳令のなか北京を脱出した。

 

孫文が良政を訪問

 

写真2 日本中国友好協会

台東区谷中にある全生庵

 1895年(明治28年)「清朝を打倒し、漢民族による中国の誕生」を目指していた孫文は、広州での武装蜂起に失敗し、日本に亡命していた。
 その孫文が、1899年(明治32年)神田三崎町に住んでいた良政を訪ねてきた。孫文と会うのは初めてであった。
 常々「清朝の改革だけでは清国は救われない」と考えていた良政は、孫文の革命思想を聞いてたちまち意気投合し、その場で同志としての支援を固く約束した。

 

蜂起に尽力、捕らえられ処刑

 

 孫文は、1900年(明治33年)の義和団の乱(注B)と清朝の衰退を見て、「革命の好機到来」と、蜂起の場所を恵州(注C)と定めた。だが、資金・武器・弾薬が調達できず、良政に依頼した。
 良政は、台湾の実力者であった知人の後藤新平、児玉源太郎(注D)に援助を求め、孫文も1900年9月に訪台した。児玉らは、援助を約束したが、たまたまこの時、日本の政変(伊藤博文内閣誕生)があり、孫文への武器供与は実現しなかった。
 孫文は蜂起の継続は不可能と判断、海豊で挙兵を進めていた鄭士良の元に良政を密使として派遣し、革命軍は解散した。
 密使としての任務はすんだが、日本国内の政変とはいえ「武器援助」ができなかった責任を強く感じていた良政は、撤退する軍と行動をともにし、そのしんがりを勤め、背後から襲ってきた清国官軍に捕らえられ、処刑された。その死は、厳重な箝口令によって長く伏せられていた。

 

「孫文」が記念碑を建立

写真3 日本中国友好協会

碑には孫文の筆が刻まれている

 

 それから12年後、1912年(明治45年)孫文は辛亥革命に成功し、中華民国を成立させた。翌年、準国賓として来日した孫文は、東京谷中の寺院・全生庵に「山田良政之碑」(注@)を建立した。
 碑には、「山田良政先生は弘前の人なり。康子閏8月、革命軍恵洲に起つ。君、身を挺して義に赴き、遂に戦死す。嗚呼、其人道の犠牲、亜洲の先覚たり。身は湮滅すと雖も、而も其志は朽ちず」と、孫文の筆が刻まれている。
 孫文は不屈の革命家であったが、情に篤い人物でもあったことが偲ばれる。(宣)

 

 注@ 山田良政記念碑=東京都台東区谷中5-4-7 東京メトロ千代田線・千駄木駅から徒歩5分。言問通りに面している。[戻る]

 注A 清朝政府の改革派=康有為、王照ら。清国政府を内部から改革しようとした。これに対し、頑迷な保守思想をもつ西太后を中心にした保守派は、光緒帝を幽閉し、康有為らを弾圧した。これを「戊戌政変」という。[戻る]

 注B 義和団の乱=日清戦争後、1899〜1900年にかけて、列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。義和団が生活に苦しむ農民を集め起こした排外運動。各地でキリスト教会を襲う。山東に始まった運動が華北一帯に広がった。[戻る]

 注C 恵州蜂起=1900年、孫文が興中会と革命勢力を結集して広東省恵洲で武装蜂起を計画した事件。[戻る]

 注D 後藤新平・児玉源太郎=後藤は良政の叔父菊地九郎と親交があった。時の台湾総督児玉源太郎と後藤は、「3個師団分の武器援助」を約束したが、その背景には、日本が後押しして華南に親日の政権をつくろうとの目論見があったといわれる。[戻る]

 

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