日中友好協会(日本中国友好協会)

日本中国友好協会
〒101-0065
東京都千代田区西神田2-4-1 東方学会ビル3F
Tel:03(3234)4700
Fax:03(3234)4703

HOME > 日中友好新聞 > 2010年1月15日号

日中友好新聞

2010年1月15日号1面
いまも歌い継がれる日中友好の歌
「東京−北京」誕生秘話

 「アジアの兄弟よ、はらからよ…」で始まるこの軽やかな行進曲風の歌をご存知の方は多いでしょう。いまから50年以上前にできたこの歌が全国各地でいまも歌い継がれています。
 今年は日本中国友好協会創立60周年。日中友好運動は、この歌に励まされ、「幾多の嵐の時代」を乗り越えてきました。その歌「東京−北京」誕生秘話を追ってみました。(編集部)

 

関鑑子さんの音頭で着手

 

写真

藤本洋さん

 誕生のいきさつを解き明かしてくれた人は、藤本洋さん(76歳)。元中央合唱団団長で、同合唱団、日本のうたごえ祭典の発祥期から携わってきた人である。
 いまでは毎年1万人を大きく超す日本のうたごえ祭典=Bその中心となってきたのが中央合唱団である。1947年、土方与平氏(現・劇団青年劇場)らが中心となって創立された。指導者は関鑑子さん(※@)。当時日本を代表するソプラノ歌手であった。レーニン平和賞受賞祝賀会には、童謡「赤とんぼ」の作曲家・山田耕筰氏も駆けつけた。
 「東京―北京」の原点は「ストックホルムアピール」が出された1950年にさかのぼる。この会議に日本代表として参加した柳田謙十郎氏(哲学者・後に日本中国友好協会会長)と中国の代表郭沫若氏(作家)との間で、日本と中国それぞれで「日中友好の歌」をつくることが約束された。それを受けて関さんが「東京―北京」作成の音頭をとった。

 

※@ 関鑑子(せき・あきこ)
  1899年東京生まれ。東京音楽学校声楽家卒業。立花ふさ、ハンカ・ペツォールドに師事しソプラノ歌手に。1929年、プロレタリア音楽家同盟初代委員長となる。1948年中央合唱団を創立、1951年音楽センター主宰者となり「うたごえ運動」を展開。1956年、国際レーニン平和賞受賞。1973年没。73歳。

 

多くの応募作品のなかから

 

写真
関艦子さんと合唱団(提供:うたごえ新聞)

 中華人民共和国建国から間もない1950年代初め、日本の文化団体の女性代表が、中華婦女連合会から国慶節へ招待を受けた。しかし当時中国とは国交がなく、日本政府は旅券発行を拒否、訪問は実現しなかった。
 その時、関さんが「約束されていた日中友好の歌をいまこそ作りましょう。題は『東京―北京』にしましょう」と提案。当時若手作曲家として音楽センター作曲講座の講師だった間宮芳生さん(※A)も講座参加者に呼びかけ、大きな反響があり、たくさんの応募があった。「東京―北京」誕生前夜のことである。
 先に詩が選定された。多くの応募作品のなかから、下山房雄さん(当時中央合唱団19期研究生・大学3年生)と山本順一さん(当時中央合唱団第20期研究生・電電公社労働者)の作品が選ばれた。20歳だった下山さんは「中国が中共と呼ばれ、中国を中国と呼ぶのはアカと攻撃された時代」(日中友好新聞「神奈川版」08年3月号)。これを打ち破る心に響く明るい詩をと努力したと当時を回想する。
 これを受けて作られた多くの曲が絞られた結果、寺原伸夫さん(※B)の曲が選ばれた。選者は、関さんと「世界をつなげ花の輪に」の作曲家・箕作秋吉さんだった。戦後の民主主義運動と新中国の誕生を歓迎する世論の高まりがその源流にあった。

 

※A 間宮芳生(まみや・よしお)
  作曲家。1929年北海道旭川生まれ。東京音楽学校(現・東京藝術大学)作曲家卒業。1953年、外山雄三、林光氏らとともに「山羊の会」を結成。管弦楽・吹奏楽・協奏曲・合唱・演劇など幅広い分野で活動し多くの作品を制作。「橋のない川」「セロ弾きのゴーシュ」「NHKドラマ竜馬がゆく」「火垂の墓」など、映画・テレビのための音楽も多数。

※B 寺原伸夫(てらはら・のぶお)
  作曲家。1928年宮崎県延岡市生まれ。宮崎農林専門学校卒。中学校教員として勤務する傍ら作曲に従事。1963年来日したアラム・ハチャトゥリアンに才能を認められ、モスクワ音楽院に留学、以後7年間同氏に師事。吉永小百合の代表作、映画「キューポラのある街」の挿入歌「わらぐつの歌」など多数。「チェロ協奏曲」モノオペラ「ひろしま」などを制作。

 

李徳全女史歓迎で全国に

 

 1954年10月、国交のなかった中国から初の要人が来日した。中国紅十字会主席李徳全女史。日本政府が中国敵視政策をとっているなかで、在中国日本人3万数千人を帰国させてくれたことへの感謝をこめて、衆参両院で満場一致採択され、日本赤十字社が社賓とし招待した。
 「赤の国からの大物来日」、右翼勢力は色めき立ち妨害は激しかった。当時の協会を中心とした青年・学生は進んで警備に参加した。到着地羽田空港から京浜第一国道まで埋め尽くすほどの人びとが集まり圧巻だったという。
 この警備の最大の武器が「東京―北京」だった。中央合唱団はその先頭に立って普及に献身した。石川賢作さん(現・日中友好協会愛知県連会長)も警備に参加した一人。「私たちは『新中国』から初めてのお客さんの李徳全さんを心から歓迎しました。中国からの帰国者たちは人民服に人民帽といういでたちで名古屋駅に出迎えました。できたばかりの名古屋支部は『自主防衛』に回り、日本最初のテレビ塔には『爆弾が仕掛けられているかも』ということで、私たちが先に登りました」と当時を振り返る。
 李徳全女史は各地を訪問し、歓迎のなかで「東京―北京」は大きく広がり、日中友好の気運が一気に高まった。まさに「うたごえは平和の力」である。
 藤本さんは「『東京―北京』の曲想は、とても明るい大衆的な親しみやすいマーチで、皆がどんどん太陽に向かって行進していくようにできていて『美しい友情は…世界をつなぐ』のところで広がりのある優しさに満ちたメロディーになり、最後の『東京―北京』がファンファーレのような高らかなクライマックスになっています」と専門家の目で高く評価している。

 

写真

「東京−北京」が収録されているレコードジャケット(提供:中日青年友好大聯歓紀念)

中国でも歓迎、普及される

 

 関鑑子さんは、1955年「世界青年平和友好祭」の準備会にウイーン経由でモスクワ訪問後、中国を訪問。「東京―北京」の歌詞・歌曲を贈呈した。「東京―北京」は中国でも大歓迎され広く歌われた。これが契機で中国音楽家との交流が始まった。1961年の「日本のうたごえ祭典」には、中国作曲家同盟の李委員長が初来日、全国各地を巡回、「東京―北京」はさらに広がった。以来、うたごえ祭典では長く歌い継がれた。

 

21世紀にふさわしい「歌」の期待も

 

 21世紀も早や10年。情勢も世代も大きく変わった。日中関係も進展した。しかし「国民間の友好」を発展させるためにはなお大きな課題が山積している。国民相互の友好をさらに推進する「新しい時代にふさわしい日中友好の歌を」という要望もある。素晴らしい、力強い「新日中友好歌」の誕生も待たれている。(大田宣也/押見真帆)

 

東京−北京
 アジアの兄弟よ はらからよ アジアに光よ かかげよう はげしい嵐に 負けないで 太陽の情熱を もやそうよ 美しい友情は 東京−北京を結び 美しい心は 世界をつなぐ さえぎるもの なんであろうと しっかりと 手をとりあおう 友情のしるしは 東京−北京
 アジアの兄弟よ はらからよ アジアに自由を かちとろう さえぎるいばらを きりひらいて 新しい楽土を つくろうよ 輝かしい歌声は 東京−北京を結び 美しいしらべは 世界にこだまする さえぎるもの なんであろうと しっかりと 手をとりあおう 歌声のこだまは 東京−北京
 アジアの兄弟よ はらからよ アジアに平和を かためよう この美しい ふるさとを 俺たちの赤い血で 汚すまい 平和への願いは 東京−北京を結び 平和への誓いは 世界にひろがる さえぎるもの なんであろうと しっかりと 手をとりあおう 平和へのきずなは 東京−北京

[一覧に戻る]