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日中友好新聞

2008年11月15日号1面
中国漢方の歴史と由来
日本漢方協会会長
飯島弘さんに聞く

 日本人はもとより人類にとって西洋医学とともに東洋医学は欠かせないものとなっています。日本漢方協会会長の飯島弘さんにお話を聞きました。

 

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飯島弘(いいじま・ひろし)
 1937年生まれ。東京薬科大学卒。日本漢方協会会長。足立区薬剤師会会長。仁生堂薬品株式会社代表取締役。1978年漢方関係者として訪中、以来たびたび中国を訪問。日本棋院足立支部支部長。棋力5段。

中国医学の源流

 

 中国古代医学の集積として現存する最古の古典には「黄帝内経(こうていだいけい)」「神農本草(しんのうほんぞう)経」「傷寒(しょうかん)雑病論」の三つがあります。
 まず、前漢時代(紀元前200〜後8年)に「黄帝内経」が、続いて後漢時代(紀元25〜220年)に「神農本草経」が著されました。
 その後、後漢の末期に長沙の大守(今でいう知事)をしていた張仲景が紀元200年ころ、「傷寒雑病論」を著します。
 以上の三大古典の成立年代は多少のずれはありますが、この時代に中国古代医学が記述され、体系化されてきたものと思われます。
 4000年の悠久の歴史の流れのなか、中国医学(広く東洋医学と呼びます)は東西南北各地の気候、風土的特色と密接に関係しながら、湯液、鍼灸、按摩、気功、導引、薬膳などの療法が広まり、現代へと発展したものと思われます。
 長い長い時を経て、1949年に新中国が発足。現在の中国医学の理論体系は、毛沢東の国内医学保護政策宣言(1953年)に始まります。「中西医結合」「中西医合作」を標榜しつつ人類への健康増進に貢献しています。

 

日本漢方と中医学の違いは大きい

 

 昨今のわが国にあって、日本漢方と中医学(中国伝統医学)には多くの相違点があります。近年一つの潮流となっている中医学と明治以降に復興した日本漢方の成立や考え方の違いは大きく、しっかりと認識していただきたく思います。
 古代にあっては、わが国の医学は、民間療法的なものを除けば、そのほとんどが中国医学の模倣であったといっても過言ではありません。
 6世紀の前半に仏教が朝鮮半島を経由してわが国に伝来しましたが、これに伴って中国の医学ももたらされたといわれています。その後、遣隋使・遣唐使によって大陸の文化とともに医薬品、医学の体系が直輸入されたのです。
 この流れは日本で長く続き、幕末まで医学といえば中国から輸入した医学をわが国の国情に合わせて改良した漢方医学でした。
 ところが、現在の日本化された日本漢方が普及するようになったのは、桃山時代の曲直瀬道三(まなせどうさん)、玄朔(げんさく)父子の功績が大であります。
 1600年ころを境に日本の医学文化の様相は一変しました。
 中国から新時代の医書が次々と渡来し、その中国医学書を分かりやすく整理して、上述の曲直瀬道三が「啓迪集」を編述し、時の正親町(おうぎまち)天皇に献上しました。
 足利学校で学んだ道三は、明に留学した田代三喜に師事し、中国の金(1115年〜)、元(1271年〜)医学に自己の経験を加えて独自の医学を作りました。
 なんと、正倉院に伝わる聖武天皇の遺品、蘭奢待(らんじゃたい)を信長よりいただいたという当時の最高地位の医家となったのです。
 漢方薬大ファンの徳川家康もこの香木に執着し、それが現在名古屋の徳川美術館に所蔵されています。
 道三流医学は現在まで受け継がれ、後世派流医学と呼ばれています。
 一方、江戸中期の復古思想とともに医の原典に帰ろうとする運動が起こり、五行説などを排し、親試実験にもとづくキリスト教といえば聖書のごとく、漢方は傷寒論を聖書(バイブル)としてあがむべきとする一派(古方派)が興り、さらにはそれぞれの療法の長所を取り入れる折衷派などが名乗りを上げ、今日に受け継がれています。

 

漢方の日中交流を盛んに

 

 以来、東洋医学、漢方治療が大きく普及。いまでは、全国の薬局5万店のうち1万店に広がっています。
 現在、中国との漢方交流は盛んになっており、今後も広がることは間違いありません。平和で友好な関係を大切にして、お互いの健康増進に漢方医学を役立てていきたいですね。
(お)

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