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日中友好新聞

2007年2月25日号1面

(10年ぶり来日の謝晋監督が語る)
経済交流よりもっと
日中映画交流を


石子順(映画評論家)

 中国映画の巨匠、謝晋監督が昨年12月、「中国文化フェスティバル2006・東京テアトル創立60周年〜中国☆上海映画祭」の舞台あいさつのため10年ぶりに来日。その記者会見で同氏は大きな声で、熱っぽく、日中映画交流の大切さを語りました。


  「久しぶりに日本に来られて嬉しいです。高倉健さんと合作できなかったのは残念でしたが、小巻さん(栗原小巻)とは仕事をともにすることができてよかったです」
 1億元かけて撮った『阿片戦争』の日本公開キャンペーン以来の来日だ。初めから健さんの名前が出たのは、張芸謀監督の『単騎、千里を走る。』を思ったからではないだろうか。
 かつて山崎豊子の「大地の子」がテレビドラマ化される前に映画化プランがあった。高倉健主演で謝晋監督という名があがったのだが――。小巻さんは、『乳泉村の子』に日本の母親役で出演、成長した息子との再会シーンで泣かせたものだ。

日中両国の映画交流について熱く語る謝晋監督
(06年12月、東京都内、「東京テアトル創立60周年〜中国☆上海映画祭「の記者会見で)

 「2005年は中国映画100年でした。これを記念して100本の中国映画が選ばれましたが、私の映画が『芙蓉鎮』など8本も入りました。なぜ『芙蓉鎮』を撮ったか。これは文化大革命を描きました。文革は中国最大の災難でした。1億人が被害を受けた。これを描かない理由はない。だからこれを撮った。いまだけでなく将来に残る映画として、若い人たちに見てもらうためにです」
 謝晋監督は文革で迫害され父親が自殺し、自分もそれを考えた。だが障害児になった2人の息子のために生きた。

 日本映画で考え変わった

 20代、日中戦争下には重慶にいた。連日日本の空襲におびやかされた。友人が爆死した。日本は憎いと思っていたが、その考えが変わったのは、戦争後に日本映画を見たからだ。
 「1950年代の日本映画は最高でした」。木下恵介、今井正、山本薩夫、黒澤明というすごい監督がいたのだ。「『二十四の瞳』に感動しました。映画によって日本も長い戦争で苦しみ多くの人びとが亡くなったということを知ったのです。この苦難をへたあとに素晴らしい日本映画が生まれたのです。この時の映画交流はよかった」
 文革のあと、中国映画にすごい映画が生まれたことと、戦争後の日本映画にすごい映画があらわれたことと似ている、と10年前に会ったとき謝晋監督が指摘した。苦難をのりこえ、無数の犠牲の上に、そういうあやまちは繰り返さないという決意こそが、最高の映画を生み出したというのだ。

 映画は魅力的な交流手段

 「いま、日中間では経済交流が盛んです。経済交流が成長することはいいが、文化交流はもっと必要だ。映画はどうか。日本映画が中国で上映されていない。日本では中国映画はどうか?まだまだ足りない。大変残念なことです、中国と日本、二つの国の東方文化の交流が必要です、演劇も音楽もいいですが、映画はそのまま分かります。映画は文化です。映画は交流の手段としていちばん簡単で魅力的なものです」。お互いの国の映画を上映していくだけでなく、「映画監督、映画俳優の交流、日中合作映画の展開など、さまざまな映画交流をますます広めてほしい。若い人たちのために!」と訴える謝晋監督は、まさに映画の巨匠であり、映画青年そのものだった。


謝晋(シエ・ジン)

 1923年浙江省紹興生まれ。少年時代から演劇への関心を高め、41年国立戯劇専科学校に入学、卒業後重慶で舞台活動。建国後、上海聨合電影在籍中に『控訴』で監督デビュー。57年『女籠五号』、60年『紅色娘子軍』で国内外の賞を獲得し、国際的に知られようになる。しかし、64年の『舞台姉妹』は文化大革命により上映中止となり、自身も「労働改造所」に入れられる。  文革後、創作活動を再開し『天雲山物語』(80年)、『芙蓉鎮』(87年)、『乳泉村の子』(91年)、『阿片戦争』(97年)を始め、多数の作品を発表している。



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