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日中友好新聞

2007年1月15日号1面
<新連載> 張作霖、張学良と日本(1)

中国史、日中関係史の核心へ

張作霖没後80周年記念のために
儀我壮一郎

 

写真

張作霖爆殺事件現場の現在の様子(瀋陽)。「満鉄」と中国の鉄道が交わる場所だった

 中華民国期の奉天軍閥・張作霖(ちょうさくりん 後に安国軍大元帥)と、その長男で、中国の近代史において重要な役割を果たした張学良と深い縁をもつ儀我壮一郎さん(大阪市立大学名誉教授・元日本学術会議会員)に、今号より「張作霖・張学良と日本」と題し連載を執筆してもらいます(月1回掲載予定)。

張作霖爆殺事件


 2008(平成20)年6月4日は、張作霖の没後80周年の祥月命日です。記念行事などが計画中で、私もぜひ協力したいと希望しています。私的・公的理由は、次のとおりです。
 1928(昭和3)年の同じ日に、北京から奉天(瀋陽)に帰還する張作霖大元帥坐乗の特別列車が、関東軍高級参謀河本大作大佐を首謀者とする謀略により、瀋陽駅付近の皇姑屯で爆破され張作霖は瀕死の重傷、数時間後に奉天城内の自宅で死去しました。
 同じ車両で、張作霖と同行中の私の父親・張の軍事顧問・儀我誠也陸軍少佐は、間一髪の差で軽傷、九死に一生を得たのです。

張学良と私

 父親の危機という限りでは、張作霖の長男・学良と、誠也の長男の私は、同じ立場でした。小学校3年生の私は、事情を理解できませんでした。しかし、28歳の張学良は、前線から、変装して急きょ奉天に戻り、周到な配慮で、関東軍に軍事行動の口実を作らせなかったのです。
 さらに、張学良は、同年12月29日には、日本政府側の執拗な妨害を巧みに排除して、国民政府との統合すなわち全国統一を意味する「易幟」にふみきりました。東3省にも、青天白日旗がひるがえることになったのです。
 早くも1928年に「満州事変」的侵略を始めようとしていた河本大作などの野望は、挫折し失敗しました。
 満州を侵略し、華北などへの支配力強化を目指すという点では、田中義一(陸軍大将・政友会総裁)首相も、関東軍も、基本的には共通していました。
 しかし、張作霖政権の「抗日的側面」の位置づけも含めて、日本の「かいらい政権」として利用すべきか否かについては、日本の支配層内部に、意見の不一致があったのです。田中首相は利用可能ととらえ、河本大作など関東軍内部は打倒張作霖に傾いていました。
 まず、松本清張「満州某重大事件」『昭和史発掘3』(文春文庫)を参照してください。古野直也『張家三代の興亡』(芙蓉書房)もあります。

張父子と日中関係史

 張作霖・学良父子は、中国の歴史、日中関係の歴史を、大きく動かしてきました。私はこの2人と幼いながら「面識」があり、思い出すことが多いのです。
 張父子は、孫文、蒋介石、宋美齢、郭松齢、楊宇霆、李大〓(※)、毛沢東、周恩来、溥儀その他と複雑な歴史的諸関係を形成します。
 日本人では、張学良と同年齢の昭和天皇、本庄繁、松井七夫、町野武馬、大倉喜八郎、芳沢謙吉、吉田茂、床次竹二郎その他と実に多様な関係を結んでいます。
 張作霖(1875―1928)・張学良(1901―2001)の、これらの人びととの交流・敵対・協調の足取りを追うことは、中国史、日中関係史の核心部分の探究を意味します。
 張作霖没後80周年を間近に、浅田次郎『北方の虹』(全4巻・講談社)、渋谷由里『馬賊で見る「満州」張作霖のあゆんだ道』(講談社)、水野明「張作霖のパーソナリティ」(愛知学院大学)『閑花衆』などの相次ぐ公刊も偶然ではないのです。

※〓は、「金」+「リ」。



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